大概、というか常識ハズレに自由になりつつあるし、ハタから見たらすでに自由気ままに映るであろうボクでさえも、まだまだアンチェインとは行かない。
行動的にはそうしてるつもりでも、まだまだ精神的に足枷があったりする。ということ。
その理由は、そもそも自由の定義が曖昧というか、中途半端ことで、こんな風になるんやなと気付いたので、自由の(ボクなりの)定義をしておかなければいけないようだ。
自由の成り立ちは調べてないが、漢字から見るに、自己の理由に則ることを自由と呼ぶのだと定義をしてみよう。
自己の理由。つまり、我が儘であるということだ。我が心の赴くままに行動することを自由と呼び、その積み重ねの先に自信、つまり強さも生まれる。
もちろん、法治国家の日本においては、法のもとに許された範囲である。
では、ボクにとって、我が心の赴くままとはなんだろうか?
いや、ボクにとってと言うよりも、これは誰しもにとってなんだが、それは「やりたいことをやる」「やりたくないことはしない」に尽きる。
つまり、本当に生きたいように生きることが、自由である。と、まとめると抽象的になるから、困惑するんだろうな。
やりたくないことはしない。と言っても、納得のできる範囲に昇華できれば、やればいいと思う。
それは、やりたくないこともやっても良いと思うためには、条件を付ければ許容できることもあるってことだ。
逆を言えば、そこまでワガママになれなければ、自由ではないと言える。
だから、ボクは自由を望み、自由であろうともがいているのに、どこかでブレーキしたり、フィルタリングしている。
自分の生きたいように生きることというのは、誰かに迷惑もかけるし、誰かに縛られもしないし、誰の目も気にしないということだ。
まさに、天上天下唯我独尊で生きることを自由と呼ぶ。
ただし、この生き方の先には、幸せがなければいけないし、楽しくなければいけないし、さらには優しくなければいけないし、愛を持たなければいけないし、感謝がなければいけない。
それらがなければ、その生き方は、自由ではなく、独りよがりでしかない。
だからこそ、自分が楽しいと思える生き方を最優先で選ぶ。自分が行きたい方向で、生きたいと思う生き方をする。
それが自由だ。
だから、ボクの自由もここからアップデートしよう。
もっとワガママになってイイ。唯我独尊。あなたという神輿の上でこそ、ボクは輝ける。さぁ、皆の衆、ボクを担ぎ、崇め、奉ろう。
神輿、みこし、354。これは、ボクの車のナンバーの隠された意味。ボクが自由になるためのヒントの暗示やったようだ。
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