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アパリグラハから得た「承認欲求」新たな気付き

先日買ったヤマ・ニヤマ: ヒマラヤ聖者が説くスーパーマインドになる10の教えという本を読んで、ヨガのヤマ・ニヤマの勉強をしているのだが、承認欲求に対して、新たな気付きを得られそうなので、慌てて記事を書くことにした。リアルタイムで思考を巡らせたいと思う。(と言っても、記事の投稿は数日後になるが)

承認欲求なんていらないと思ってたのだけれど、意外なところで自分の承認欲求の強さに気付いた。

アパリグラハ(執着しないこと)

ヨガの八支則で、日常から心がけるべき道徳的な教えとして、ヤマ(禁戒)、「してはいけないこと」というのがあるのだけれど、その5つ目の教えであるアパリグラハ(不貪)の解説を読んでいた。アパリグラハは、物事に必要以上に執着しないという教えなのだが、ここには承認欲求も含まれるらしい。

物欲などであれば、すんなり理解できたのだが、昨今のSNSなどによる承認欲求の嵐も、ここに該当するらしい。

承認欲求が大衆から個人へ

ボクは、SNSはほとんどやっていない。昔はやっていたけど、虚しくなってやめた口だ。今ではTwitterでブログの更新をつぶやくことと、Instagramで仕事の投稿をするくらい。SNSは見てるだけでも疲れるので、面白くなくなった。とは言え、承認欲求はSNSにだけあるわけではない。承認欲求について解説するつもりはないけれど、誰かに認めて欲しいというエゴは、些細であっても多くの人が持っているし、それは一種寂しさからくるものでもある。

そこで、ボクは思い当たったのだ。大切な女性に対して、返事がなくてもLINEを送っているのは、承認欲求を満たそうとしているからなのか?と。。。返事がないというのは、何も一切返事がないわけではない。相手のタイミングで返事はもらえるのだが、その間でも、何気ないことでもつい報告している自分に気付いたのだ。

これが承認欲求だとすれば、ボクは自分の行為を勘違いしていたし、改めるべきだと思う。勘違いというのは、LINEで繋がっていることへの安心感が一つ。これは、既読がつくだけでも得られるし、返事がくればもちろんだ。そして、自分のことを報告することで、相手に知って欲しかった。だけど、これは承認欲求を求める先が、SNSから、LINE(個人相手)に変わっただけだった。

つまり、ボクは自分の承認欲求を満たしてほしくて、LINEをしていたことが多々あるわけだ。いや、思いを寄せる人なのだから、認めて欲しいという自分のエゴは分かるんだけど、SNS(大衆)からLINE(個人)に変わっただけで、承認欲求のために行う行為は、決して良いことではないじゃないか。

うーん、これはなかなかにショックな気付きだ。

でも、気付けたことは良かった。そもそもボクは、LINEは寂しいからしていると思っていたのだけれど、まぁ、それはそれで改善の余地があるとして、まさか承認欲求に執着していたとは夢にも思わなかった。申し訳ない限りである。

自分の承認欲求に気付き・・・

こうして、自分の欲に気付くと、みっともなさを知ってしまう。惨めにも思う。だけど、自分を知らなければ、次には進めないし、ありのままの自分を認めてあげれば、改善もできると思う。

冒頭の本では、執着しない境地として、こんな一節が書かれていたので、紹介したい。

純粋な体と心でいるというのは、路傍の石のように、花のようにただ存在することができるということです。

ヤマ・ニヤマ: ヒマラヤ聖者が説くスーパーマインドになる10の教え:相川圭子

人が自然のようになることは、とても難しい。きっと到達できる境地ではないと思う。だけど、自分がそこにいるだけで尊い存在であることに気付けば、自分への感謝、他者への感謝、環境への感謝、自然、地球、宇宙への感謝、生命への感謝ができると思う。

承認欲求の新たな気付きに関するまとめ

ボクは、今回の気付きで、今自分がここにいることの尊さの片鱗に気付けた。それと同時に、LINEの相手の女性に対しても、今、同じ時代、同じ国、同じ時間、同じ空の下に存在できていることに感謝すれば、ただそれだけで良いのだということにも気付いた。

気付いたからと言って、納得できるまではもう少し時間がかかるのだけれど、彼女と出逢えたこと、そのことに感謝と尊さを感じなければ、それは彼女にとっても困らせることしかしていなかっただろう。ボクはまだまだ自分を知らないから、迷惑もかけてしまうが、こうして少しずつ小さなピースを拾って、自分を成長させれば、やがて見えなかった景色が、彼女が見ている景色が見える気がしている。

※この記事は、2021年3月24日に執筆しています。

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