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無自覚の恐怖、その正体を認知した…

僕は(悪い意味で)普通の人と違うことは自覚していたんだけど、具体的に何が違うのか?なぜ違うのか?なんてことは考えたこともなかった。

何の話かを書く前に、今回の話に沿った僕が思う僕は次の通りの人間だ。

  • 好奇心旺盛
  • 集中力がある

今回は主にこの二点が関わる。

僕は多分だけど、普通の人よりも興味のあることが多いし、没頭してきたことも多いと思う。

昆虫採集、漫画を書く、小説を書く、ギター、歌、作詞作曲、読書、歴史、釣り、カメラ、ブログ、マーケティング、HP制作などなど。

仕事なったものもあれば、趣味の範囲や挫折したものもあるけれど、色々なことに興味を持っては手を出している。

そして、それらに取り組む時は過集中と言えるほどに集中したいし、集中する。

今思えば、部屋で何かに取り組んでる時に誰かが入って来たら、自分の中に異常なまでの怒りが込み上げてたのは、集中が途切れてしまうからだったんだろう。それで怒ることもあったけど、大抵は理性が先に働くから、心底うんざりだけして、応対していた。

さて、好奇心旺盛で集中して取り組めることは良いことだし、もしかしたら、「羨ましい」なんて思う人もいるかも知れないが、落とし穴もある。

なぜなら、集中力があるのに好奇心もあるってのは、相反しているからだ。

本当に何もない状態でなければ、僕は集中できないし、集中するためには何も気にならない状態、環境にしなくてはならない。

極論を言えば、机とテーブルとパソコンだけの部屋でなければ、ふとした瞬間に集中は途切れて好奇心に負ける。

例えば、集中力が強いとしても、人の長くは続かないので、ふと目を上げた時にギターが視界に入れば、それが気になる。気になれば弾きたくなって、パソコン作業を放棄して、ギターに集中する。

もしくは、ふと「あれってなんやったかな?」と思考がよぎっても然り。

そんな訳だから、好奇心と集中力の共存は難しい。

ただ、切迫詰まれば、その集中力で乗り切れる。そんな経験しかない。

だけど、それは精神的にも良くないし、周りにも良くない。

本題はここからだ。

好奇心と集中力があることによって起こる弊害には具体的な言葉がある。

それが「先延ばし」だ。

もうこれは20代の頃からずっと抱えている。

理解されないことだから、言い訳に聞こえるだろうけど、物事をすぐにやることのメリットややらなければならないことの重要性、優先度などはすべて理解しているし、先延ばしにすることで起こることも分かっている。

そして、これも理解されないが…

やらないんじゃなくて、できない。

そして、やれば集中力があるからすぐにできてしまう。

その証拠に、集中できる環境の時には「え?もうできたん?」と驚かれることも何度もある。

興が乗れば簡単にこなせる。

にも関わらず、興が乗らない時は本当にできない。

その理由がわからずに生きてきた。

さっきも言った通り、最初から答えはわかっているんだから、このプラスとマイナスの激しい差は、自己嫌悪しか産まない。

だけど、理解はできない。あなたも理解できないだろうけど、僕にもなぜかは理解できない。

何より、これをADHDという病名で呼ぶことを僕は受け入れて良いのかがわからない。

なぜなら、ADHDだから仕方ないと思いたくないからだ。

好奇心も集中力もADHDの特徴だし、指摘されれば「そうなんか…」とも思える。それを否定もしないし、受け入れる。

だけど、免罪符にしたくないから、自分がそうだと診断されたりしたらって怖さがある。

ただ、救いとしては、投薬で制御ができる可能性があるってことだ。それはとても魅力的だ。

自分で理解もできない、制御もできないことを薬一つで改善できるなら、やらない手はないし、何より試す価値しかない。

そう思うから、とりあえず病院に行こうと思っている。

正直に言うと、ADHDかどうかとかはどうでも良い。

やれないというどうしようもない現象に対して毎日抱えている不安や恐怖心がなくなるのであれば、それだけで人生は変わる。

毎日死にたくなるくらいの不安と恐怖を抱えていても、それさえ見て見ぬふりをしなければ生きられないことは、本当にツラい。

そのツラさを分かってもらおうとすることも、病気を免罪符にしてるみたいで嫌だと思ってしまうから、僕は藁をも縋る思いで薬に頼ってみようと思う。

ここ数年、健康保険証さえ使ったことのないほど病院とは無縁だけど、人生変えられるなら使いまくってでも通うよね。

まぁ、通いまくることはないやろうけど。

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