タイトルにもあるけれど、僕はお付き合いしている彼女のことをネット上では「女神ちゃん」と読んでいる。
なぜ女神さまではなく、女神ちゃんなのか、何より、なぜ女神なのか、この辺りが「こころ」の支えの話に繋がるので、まずは彼女を女神ちゃんと呼ぶようになった理由を説明しよう。
始まりは別れから
実は、僕と女神ちゃんはかれこれ二回別れている。どちらもフラれた。
付き合ったのは一月下旬でそこから二回。ちなみに、出逢ったのが一月八日のことだから、今日で丸十ヶ月が経つ。
一度目の別れの後に、僕はブログを始め、その中で自問自答による自分の見つめ直しをしていくんだけど、記事の内容によっては彼女のことを書くことが多々あった。
ところがだ、僕らは別れた後も仲が悪くなった訳ではなかったし、お互いに気持ちはあったから、恋人同士でなくなっただけという不思議な関係だったので、呼称がなかった。
元カノと言っても違和感あるし、付き合ってないから恋人ではない。そこで、大切な人とかそんな風に書いていたんだけど、なんかまどろっこしいと言うか、思わせぶりな表現に思えて、しっくりこなかったのだ。
そこで、一体どう表現するのが一番しっくり来るのか?を自問自答しながら考えるという記事を書いた。
女神の理由
これは、男性にとっての好きな女性は女神だから異論はないだろうけど、僕の女神ちゃんは色々と女神だ。
まず、何よりも別れてる時でも、僕を見捨てることなく、気付きをくれた。お陰で、僕に書く才能があることを認識できて、ブログを始めることになり、さらに自問自答という方法まで見つけるきっかけを与えてくれたのだ。
こうして導きをくれるのだから、女神なのだ。
もちろん、他にも女神たる所以はある。女神ちゃんは無茶振りもしてくるし、ワガママも言ってくる。なんとも女神ならではの態度。これも可愛く思えてしまうところが女神だ。
だけど、こういったことも、導きだったりするし、実際、僕は無茶振りに応えることで、8万円を24万円にするという奇跡を味わった。補足しておくが、ギャンブルではない。
やっぱり女神でしかない。
僕の前だけで甘えたなところも女神にしか思えないし、外では毅然としてたりするのに、弱さを見せてくれるのも女神の裏の顔みたいで堪らない。おっと、ここは単なる惚気でしかないな。
言葉を並べれば強めに聴こえるかも知れないが、美しく、毅然とし、傲慢で、我儘で、小悪魔的で、だけど憎めないし、愛らしい。これを兼ね備えていたら女神としか形容し難い。しかも、賢いと来た。
ちゃんが付く理由
これは、僕の立場から考えてってことなのだが、当時の僕は自分に自信がなく、弱腰だけど、内弁慶なところがあって、だけど、やればできたりもするという、まるでのび太みたいなやつだったから、のび太が護りたい、そして一途に想い、結婚したいと思っているのはしずかちゃんだから、彼女はしずかちゃんのようだ。という発想をしてたんだけど、さすがにしずかちゃんと呼ぶのは、具合が悪いし、そもそも別人になってしまう。
そこで、コペルニクス的発想ほどではないかも知れないし、ウルトラCでもないかも知れないが、女神+しずかちゃん=女神ちゃんなら、しっくり過ぎるくらいにしっくり来たと言う訳だ。
言い得て妙な呼称を思い付いたもんだと、我ながら感心せざるを得ない。
「こころ」の支え
さて、ここから本題に入る。
精神を病んだ経験のある僕にとって、「こころ」と言うのは、触れたくない部分だし、触れられたくない部分でもあった。
それは、いつからそうだったのかは分からないけれど、自分を見つめ直したことがないのだから、かつてから自分ですら自分のこころに触れることを禁じていたんだろう。
怖さもあっただろうし、今でも怖いのだから、自発的にし始めることではないのかも知れない。
でも、女神ちゃんは僕の「こころ」に目を向けてくれていたし、僕もそれを拒否することなく、なんなら別れたことをキッカケにして、見つめ直さなくてはいけないと積極的にやり始めた。
そうしていく中で、僕は自分のこころの中に本当の自分を見つけ、やがて、そこに女神ちゃんの存在もいることを知った。
僕のこころの中には女神ちゃんがいるのだ。
彼女がいるからこそ、僕は今を頑張ることもできるし、過去を振り返ることもできる。だから明日も変わらず頑張れるだろう。
彼女がいなければ、今の僕はいなかったことも確かだけど、こころの中にいなければ、やはり今のように日々、必死になれることもなかっただろうと思う。
誰かを想うだけで生きる気力が湧くことは、僕にとってははじめてのことだ。これまでこころを開いていなかったのだから当然だが、それ程までに女神ちゃんのことが好きで、彼女を愛しているのだとも思う。
これは、惚気の話ではない。「こころ」の支えが大切だって話だ。
それがあるかないかの差は思っている以上に大きい。僕が述べたように、女神ちゃんが側にいるだけではなく、「こころ」の中にいることで、つまり、肉体的にも精神的にも彼女を感じられることで、僕は自分らしく生きようと頑張ることができる。
自分らしくあるために自問自答は確かに必要だ。
だけど、それを行動の原動力にして行くには、ガソリンとしての純度が薄いとも思うのだ。
もちろん、自問自答をして「こころ」の声を聴き、自分の本音、本当の自分が望む生き方を知らなければ、ガソリンは得られない。
今のあなたは、ハイオクを必要とするエンジンに軽油だか灯油だかを入れてるようなものだと考えて欲しい。
それが自問自答によって、レギュラーにはなる。
また、レギュラーを入れることで、女神ちゃんのような存在とも出逢えるかも知れないし、あなたが今から大切に思っている人が女神ちゃんに思えるようになるかも知れない。
その人にあなたが自分の「こころ」を伝え、見せることをした結果、その人があなたの「こころ」の中に存在するようになれば、あなたのエンジンにもようやくハイオクが入る。
「こころ」の支えというのは、そういう存在だ。
僕は女神ちゃんと出逢えて本当に良かったと思えるし、この記事を書いて、より一層彼女を大切にしようと思ったし、これからもっと深く深く愛せるようになろうと誓えた。
「こころ」をエンジンに例えるのはよくありそやけど、そこに必要なものをガソリンの種類に例えるってのは、わかりやすくて、なかなか秀逸な例えやな。
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