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怒りという感情

怒ることってのは大なり小なりある。

僕は怒りという感情が苦手だから、その感情に触れると萎縮するって癖があるんだけど、今回は怒りを抱くことについて考えようと思った。

怒りってのは、何か自分の想いを伝えたいということの表れだと思うんだけど、なぜそれを冷静にではなく怒りで伝えるのか?

その方が相手に伝わりやすかったり、言うことを聞かせやすかったりするからだろうか?

集団社会においては、自分の意見を通さなければ誰かの意のままに生きることになりかねないから、我を通すってことのために怒りという感情が生まれたのだろうか?

動物の怒りってのは、生命を脅かす相手に対して向けられるわけで、それが本能だとしたら、やはり我を通すってのは怒りの根源としてあるんだと思われる。

後は、相手に理解されたいってのもあるだろう。

「なんで分かってくれないの?」って感情だ。

つまり、ただ伝えたいではなく、理解して欲しい、理解しようとして欲しいってことに対して、それが簡単に叶わない場合に怒りって感情が生まれるってことか?

でも、相手があってのことだから、それを理解させるのは難しいなんてことは最初から織り込み済みではないだろうか?

だけど、怒りを露わにしてでも伝えたいことがあるわけだ。

生命の危機とかそんなレベルではないにしても、自尊心を守るためとかそういうことで、人は怒る。

小難しいことを抜きにすれば、要は自分を守る為だ。

だけど、怒りってのは、相手に向けられる攻撃的な感情だから、あなたが怒る時、相手は攻撃されているし、逆も然り。

その攻撃によって、相手が傷付いた場合どうする?

その攻撃によって、相手にとっても良い方向に転ぶのであれば、その怒りは相手にも認められるものとなるから、それは良い怒りとされるだろうが、傷付けた場合はどうだ?

傷付くと言っても、こころに傷を負ったところで、それは本人にしか分からないことだから、その程度も測れないし、怒ってる側が癒すことは難しいのではないだろうか?

互いが怒りをぶつけ合うのであれば、謝り合うってことで一種の解決を見そうだけど、片方だけが怒り、もう片方に怒ることがなければ、終わりはどこにあるのだろうか?

怒りを抱いた方も傷付いてるとかって話もある。その傷を隠すために怒ると。

そうなったら、誰がその傷たちを癒せるというのか?

僕は思う。

そもそも、怒りという感情を抱く時には、許すも同様に抱く覚悟がなくてはならないと。

そして、怒りを受ける側も同様に許す覚悟を持っていなければならない。

怒りを受ける側に許される筋合いはないと思うかも知れないが、怒りというのは、互いに根深く残るものだから、許す覚悟は必要となる。

というのも、僕は根深く残る怒りとは、もはや怒りではないと思うからだ。

そもそも怒りとは許すとセットであってはじめて成立するもので、許すつもりがない怒りは、憎悪、憎しみだと思うのだ。

いつまでもしつこく怒ってる人というのは、憎しみを抱いてるということだ。

怒りという感情に支配されるということは、憎しむということ。それは、もはや人を呪い、自分を呪うってことなのだ。

だから、怒りには許すもセットで、その場限りの感情として終わりにできなければならない。

呪いは、己にも返ってくるものだ。

怒りを発端に、憎しみを抱き、それにより2人の人が呪われるなんて、誰も望んではいないのではないだろうか?

だから、僕は怒りという感情が好きになれないんだろうなと思う。

そもそも、許すなんて行為も厚かましいっちゃ厚かましいし。

人が人を裁けるとは思わないのだ。大袈裟だけど。

かと言って、感情から怒りを無くすなんてことも無論出来るわけもない。

だから、せめて怒りを感じた時には、すぐに消化するように心掛けるしかできない。

なぜ怒りを感じるのか?

そこに自分なりに納得して、鎮火させるしかないと。

燻るくらいなら、怒りをぶちまけた方が良いのかも知れないが、納得して鎮火できるなら、僕はそっちを選ぶ。

逆に怒らせてしまった場合も、なぜ怒らせたのか?を自分の中で解決するしかない。こころに傷を負いたくはないしね。

そう、僕は相手の怒りを許すなんてことをするよりも、自分の中にある原因に焦点を当てる。

怒りを覚えた時、怒り覚えさせた時、いずれでも自分と対話する以外に解決方法はないだろう。

怒りってのは、そう簡単に鎮静化されないし、他人の怒りなどはどうこうできるはずもない。

だから、本来は鎮静化できるまで、お互いに向き合い、かつ自分自身とも向き合って、話し合うってのが理想なのかも知れない。

だけど、その時にはお互いが怒りに支配されずに冷静に温和に穏やかに話あえたらいいね。

やっぱり、僕は、怒りって感情が怖いんだな。

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