だから、僕は思う。コミュニケーションにおいて、怒ることは本当に必要なのだろうか?と。
怒る教育の賜物
僕は、幼少の頃から父親に怒られることが怖くて怖くて仕方なかった。でも、兄弟喧嘩とかはやってしまうし、その度に1時間から2時間もの間、グダグダと説教されたものだ。
そのせいで、僕のこころには深い傷がある。
相手の怒りという感情が怖くて仕方ない。怒られたら、そこで脳の機能を無意識にシャットダウンしてしまう。そうやって、怒りを受け流すしか他に方法を知らない。
だから、僕にとって、この問題は大きな課題なんだけど、社会人になってからも父の下働いていたもんだから、もう死にたくなるほど怒られてきた。
お陰で、怒りを察知した途端に機能を停止するから、本当に困り果てている訳なんだけど、そもそも、怒りを露わにすることって、役に立つとは思えない。
怒り
冒頭でも書いた通り、怒りはどちらも疲れる感情だし、やはり怒りの後もすんなりいかないことも多いだろう。
さらには、僕みたいに萎縮してしまって、後遺症を残したり、モヤモヤしたままになったり、ギクシャクだってしかねないんだから、怒ることが良いとは思えないのだ。
スッキリするから怒るって人はいるだろうけど、その感情に当てられた人はどうなんだ?ってことまで考えてないのもいかがなもんかと。
大体、怒る理由はなんだ?
怒りの理由
怒るということは、相手が何か間違いを犯した時に現れる感情ではないのか?
間違いの大小はあれど、それを正そうと思うから、怒るはずだ。
指摘するとか、注意するってレベルから、侮辱への報復まで色々あるだろうけど、一般的なコミュニケーションでは、多くが指摘レベルだろう。
だとしたら、それは相手に気付いて、成長してほしいという願い故の怒りと言える。これが、怒りをもって相手を変えようとするのは、エゴが過ぎるとさえ思える。
怒る目的が、願いの成就なら、怒らずとも叶えることはできるはずだ。
怒らずに導く
例えば、間違えた相手は、そもそも間違いに気づいていないのかも知れない。だったら、まずは「なぜか?」を聞くべきだろう。
「なぜあのような言動をしたのか?」と。そこから、相手の思考や価値観を知らなければ、一方的な説教では人は成長しない。
このように本人に気付かせる方へと導かなければ、怒りの感情に飲まれてしまうだけだろう。
相手の答えから、それがもたらす危うさを教えるなり、自分の意見を述べるなりして、相手にも考えさせなければならない。
そして、大切なことは、解決策まで本人に気付かせることだ。
怒る側にも理屈はあると思うけれど、やはり人は自分で気付かなければ変われない。そして、それを望む故の怒りなら、導く側としても自覚はした方が、望んだ結果を得られるだろう。
お互いにこころが疲れることもなくなるし、それどころか、よりよい関係にさえなれるかも知れない。
怒りに飲まれる前に、相手への提案なり気付きを与えるなりへ思考をシフトチェンジした方が、誰も傷付かずに済むだろう。
そして、もちろん、怒られる側も怒られないためにも、謙虚に素直にいる努力をすべきだ。
僕は性格的にほとんど怒るということがないけれど、怒る側としても、怒られる側としても、どちらも傷つかずに済ませられるだけの人でいたいと思う。
まぁ、コミュニケーションが偏ってるから、最近はどっちも減ったんだけど、そんな今だからこそ、目指すべき自分になる努力をしないとなと、ふと思い付いたので書いてみた。
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