だから、生きていることが幸せなんだというのが、一番有り難く、何より尊く、根底に持つべき思想になる。いや、そこからさらなる幸せを求めることが欲になるとすれば、これ以外に幸せなことはないとも考えられる。
欲を持つことは悪くはないけど、欲には限りがない。
もっと美味しいものを食べたい。もっと良い製品が欲しい。もっと長生きしたい。もっと健康的になりたい。もっと愛されたい。もっと美しくなりたい。もっと才能を伸ばしたい。もっと裕福になりたい。もっと楽しみたい。もっと幸せになりたい。
もっともっとと求め続けても、終わりがないのだから、それでは幸せを感じても感じても、刹那的で虚しさを覚え、欲深くなる。
だから、人はどこかに根底となる幸せを、もしくは自分の幸せの基準を持った方が、人生の質は上がるんじゃないだろうか。
つまり、これ以上は、贅沢だ。と思えるかどうかだ。
だけど、生きるためには、ある程度の幸せを求める熱意は必要にもなる。
その程度が低ければ低いほど、それは自己価値を下げてしまいかねない。
部屋があることを贅沢だと思えば、家を持つことはないだろう。居酒屋で満足していれば、高級ラウンジに行くことはないだろう。
逆に身の丈を知らなくては、贅沢を求めることで破滅と隣り合わせにもなる。
となれば、贅沢に見合うだけの自分でなければならないし、今より幸せを求めるなら自分の質を高めることをやめてはならないともなる。
己を知り、彼を知れば、、、というのは、そういうことでもある訳だ。
己を知れば、どこまでが範疇かが分かる。手を出そうとしていること、進もうとしている先、生きる世界が身の丈に合っているのかどうかが分かる。彼とは人だけではなく、自分の周りのもの全てを指す。
ところで、人は自分を高めることで、幸せの基準を上げているのだとすれば、その人はそれほどまでに強欲であるとも言える。
だけど、本当はそうじゃない。いや、そういう人もいるけれど、本質的に異なる人たちはいる。
それは、幸せ=欲ではないことを裏付けることにもなるだろう。
強欲でなくとも、幸せの基準が高く、自身の人生が豊かであり、かつ贅沢を求めない人間。
かつてはそうでなかったのかも知れないが、そういう域はある。
それが、幸せ=感謝と思っている人たちだ。
その人たちは、贅沢でなくとも、満たされているだろう。求めることもないだろう。
結局、人は自分のためではなく、誰かのために生きることが出来れば、それこそが一番の幸せなのだ。
生きているだけで幸せなのではなく、誰かのために生きられることが幸せであると。
毎日女神ちゃんの笑顔を見られれば、僕はそれで幸せだけど、それは僕を満たすワガママでしかない。それと同時に、僕は自分の幸せを維持する必要もある。でなければ、それは本当の幸せでなくなるからだ。
誰かのために生きる。
僕もその幸せを自分の胸に刻み、いっときの孤独を過ごそうと思う。
土曜日の昼間からなぜ幸せについてなんてことを真剣に考えてるんだか、、、
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