地球が丸いことを理解するには、水平線の彼方へと消えていく船が下から消えて行く様を見なければ分からないけれど、それを疑問に思わなければ、「なんで下から見えなくなっていく?」と違和感を覚えなければ、この広大な地球が丸いとは想像だにしない。
それ程の規模とは言わないが、暗闇の森の中で一枚の落ち葉を探すようなものだ。
それが、自分を掘る作業。
色々な自分を見つけて来たけれど、その中心に何があるのかはいまだよく分かってないんじゃないか。
例えば、それが原体験なのか、思い込みなのか、別の何かなのか、、、
自分でも見えていないヤツがいる。それを無意識と呼ぶのかも知れないけれど、今回はその無意識を顕にしたい。
黙るとか、聞き流すとか、無かったことにするとか、僕にはそういうところがある。
それは、ある事について考えることを放棄するとも言える。
そもそも、僕は人に相談できず、自分一人で抱え込み、精神の限界を迎えた訳だけど、その原因は相談できないことだ。
なんとかしようと悩みに悩み、挑戦もするだろうし、手を打ってもきただろうけど、一人で解決できる問題なんてたかが知れてる。
だから、その問題が抱えきれないとなった時に、逃げようとする。
やがてそれは防衛本能的に過敏に働き、さらには一度やってしまってるから、より過敏に働くようになり、お花畑に向かおうとする。
助けを求めたり、過ちを認めたり、自分を助ける行為を外部に発信することが何故ダメだと思うのだろうか。
トラウマだとかそんなこともあるだろう。
だけど、そんな心の傷をいつまでも背負ったまま生きていることを僕は信じない。信じたくもない。
心の傷は盾にはならない。守ってくれる訳じゃない。
だから、トラウマだからムリというのは、言い訳のひとつだと考えている。でも、フラッシュバックして恐怖や不安を感じてるのかも知れないとは思う。
それは、どこか思い込みがあるからだ。
僕の場合、友だちが裏切ったことだろう。今思えば大した話ではないんだろうけど、当時の僕にはツラい出来事だったし、助けもなく、誰も理解してくれてなかったのかとも思った。
あれから人を信じられていないような気もする。
みんなで一緒に一つの目標に向かって!みたいなことも口だけだろうと思っていた。
社会に出てからも、サラリーマン経験が乏しいから、余計にそうだ。サラリーマンしてた時も、僕は起業もしてたし、副業程度に仕事もあったから、どこか異質に思われて、馴れ合うことも出来なかった。
尖ってたんだろうか。
そうやって生きてる内に、誰にも相談できない人間が形成されていた。
良き理解者だった人が若くして亡くなったこともあっただろう。あの人になら何でも相談してたのに、、、
人に思いを伝え慣れていない。
僕の弱みというか、欠点はコレだろう。
感情を伴わない会話ばかりだ。
だから、感情が混じり出すと、とたんに言葉に詰まる。
女神ちゃんに書いてる手紙を言葉に出して読んでも涙しそうになるのは、自分の感情に触れた時だろう。
作詞だって、感情に触れた時は我が歌なのに目頭が熱くなることもある。
喜べない。泣けない。怒れない。悔しがれない。憤れない。
感情はどこにいったのだろう。どこかで置き忘れて来たわけじゃないだろう。そっとフタをしたんだろうか。ギュッと蓋を閉じたのか?
女神ちゃんにもよく言われるから、感情を表に出すことは苦手なんだろう。
怒る父、泣く母、憤る人、、、そんな人たちを見る度に感情を切ろうとしてきた気もする。
喜びにさえ一線を超えた歓喜なら、僕は怖さを感じている。アイドルを生で見て狂喜する女性とか映像で見てても怖い。
自分にそこまでの感情がないから怖いのか、表現できないから怖いのか、怖いと思って表現できないのか、、、
怖いと思ってが正しいか。
自分の感情に触れてこなかったから、人の感情に触れた瞬間から怖さを感じてしまうんだろう。
さて、どうすれば感情と向き合えるだろう。
もっと感情的な言葉を発するにはどうすればいいだろうか。
今自分が感じている感情をとりあえず言葉にしてみたらいいのだろうか。
それさえも怖いんだけれど、、、
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