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自分のために脳を使えない人はシンドさを追求しているように思う

自問自答って行為は一日の間に何万回かしているらしいんだけど、これは「何食べよう?」とか、そういう類のものが含まれる回数に過ぎない。

とは言え、気軽に行える割には、質を高めれば自分を変えるほどのポテンシャルがあるんだから、結局、人ってのは「考える」ことが好きなんじゃないかって思う。

人は考える葦である

ただ、好奇心以上に、脳は疲労を嫌う。だから、脳は考えたくはない。特に選択を必要とするような思考を避けたがる。

その選択が、人生において重要であればあるほどに、脳は避けたがる。

よって、普通に生きていれば、脳に従順になる。

つまり、怠惰になるのだ。

あなたはどうだろうか?

日々、あなたの人生において重要な選択をしているだろうか?

毎日同じ服を着ること、同じメニューを頼むこと、そうやってムダな選択を減らす人たちがいる。スティーブ・ジョブズやイチローがそうだ。

なぜそんな楽しくないことをするのか?その理由が、脳を疲れさせず、必要な場面にだけフル活用させるためだと言う。

彼らの偉大な功績は、そこまでして、脳を使うからこそと言えるのかも知れない。

脳の使い道

そんな疲れやすい脳だけど、やはり使い所さえ間違えなければ、僕たちの思っている以上に、力を発揮してくれるだろう。

そんな脳を使うべきところとはどこなのか?

人生において重要な選択とはなんなのだろうか?

一つは、如何に自分らしく生きられるような環境を作るか?だと思う。

自分らしければ、何を食べようと考えても、何を着ようと考えても、それは活力となるだろう。

ただ、漫然と生きるための決断ではダメだということだ。

僕たちは流されやすい。

そして、それが故に脳と同時にこころも疲れやすい。

他者のために脳だけでなくこころまで疲弊させる必要があるのだろうか?

例えば、慈愛に生きることが自分らしさなのであれば、それも重要な選択だろう。

だけど、流されてるだけなら、そうではないし、ましてや、エゴに気付かず慈愛気取りなんて、他者まで巻き込んで疲弊をお節介で配給してるんだから、救いようもない。

自分らしさを知らないなら、自分らしさを知ることに脳を使うべきだろう。脳にだって使う順番、優先すべき順番があるってことだ。ただ闇雲に使えばいいわけじゃない。

考えることから逃げない

僕は、毎日ブログに何を書こうか、あなたにどんなメッセージを届けようかと考えている。もうかれこれ260日以上、そんなことを考えて生きている。

これは他者の為だけど、なんてことはない、僕の為だから考えているだけだ。

自分の中にあるカケラを探し、それに肉付けをして、言葉に乗せるという行為が、僕にとっては快楽なのだ。

成長もするし、変化もするから、言ってることは昨日と違うこともあるだろうけど、僕はメッセージをブログに書くことで、実は自分を見つめている。

書けば書くほどに、僕は自分を知っていける。

最近、自問自答らしいことはあんまりしていない。メソッドを講座にしているのに、僕自身はそれをしなくなってきている。

理由は、単にやり方が変わって来ていることと、コツを掴んで来たからだろう。

自分で生み出したものに、守破離なんてあるのか知らないけれど、離れつつある気がしている。

だからこそ、人に教えられることもあるんだろう。

自分が守にいては、大局的に見えやしない。破の段階でもムリだろう。

なぜなら、破とは、まだ守に根付いているからだ。

なので、自分の生み出したメソッドであれ、離れてこそ見えるということ。

考えることから逃げなければ、人はどこまでも成長できるんだと思う。

脳は使えば使うほどに、複雑に回路を繋ぐそうだから、これからも自問自答のメソッドは、予想もできない方向へ進化するんだろうなと思う。

離れ始めた今も、また新たな要素を組み込めないかなんて常に考えているんだから、進化は止まない。

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