そこに他人がいれば、それはすでに試されていると考えてもいいだろう。
試されてると思うと疲れるが
仮に友人といても「試されてる」なんて思ってたら、シンドい。友人のことを訝しんでしまうかも知れない。
だから、別にそういうことじゃないんだな。
ボクが言いたいのは、「本当に試される時に備えて」、いつも試されてると考えて生きる。という選択肢を持っといた方が楽だってことだ。
「試そうとしてない相手に何を試されてると言うのか?」なんて思うかも知れない。
試練なんてゲーム
それは、自分で勝手に決めればいい。つまり、試練なんてゲームみたいなもんだ。
「今日はこいつを◯回笑わせてやろう」とか「◯◯って言わせてやろう」とか、ほんとなんでも良い。徐々にレベルを上げるのも楽しいだろう。
そうやってる内に、ほんとの試練が来た時にも、「やっとこさ、来なすった」と焦ることなく、落ち着いて対処できるんじゃないかと思うわけだ。
それが勘違いでもいい。でも、それもゲームだ。楽しんで、本気でクリアしてやればいい。
クリアの数だけ強くなる
なんでもそうだけど、耐性が付くと、強くなれる。
だから、いつも試練を作るのは、アリやと思う。
ボクは、昨夜、妹から「また適応障害の時の症状出てる」「病院行った方がいい」と言われて、ショックを受けた。
幸い、すぐにポジティブになれたんだけど、そのショックで余計に鬱になってたから、なかなかにしんどかった。
そういうこともあるから、常日頃から試練を作ろうと思ったわけだ。
まぁ、ボクの場合は、ブログでの自己開示が毎日試練なんやけど、それとは別にね。
ほんと、ブログ書いてても鬱になるのに、そこに来て、周りからも突然、試練が来るのは精神衛生的によろしくない。
今日で言えば、「即行動」が課した試練ってとこかな。言われたことも頼まれたわけじゃないけど、すぐに動いたし、閃いたこともすぐに行動した。
これを場面場面でやってたら、これまたスゴい成長をもたらすんではないだろうか。
タパスがボクへのメッセージなので、こういう取り組みもはじめてみようと思ふ。
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