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嫌われる勇気(こぉじ版)【雑記】

アドラーのそれと一緒にされると畏れ多いので、読んだ方はもちろん、今後読まれる方もアドラーの嫌われる勇気と比較はしないで欲しい。

ボクは人に好かれたいと思って生きてきた。

誰しもそうだろ?自分のことを嫌う人はいない方がいいに決まってる。

嫌いな人もいるし、嫌われることもある

嫌われたくないと言ってもだ。ボクも嫌いな人間はいる。少なくとも二人はいる。いや、二人もいる。

そのくせ、自分は嫌われたくないとか、ご都合良すぎて笑える。

だけど、 ボクは嫌いだからと言って、拒絶はしない。ここはボクの性格なのか、悪い癖なのだろう。無碍にはできない自分がいる。

そこが良くないって話をしたい。

理想は高く、されど自分に素直で

目指すべき人間性は高く持てばいいと思う。低いよりは高い方がいい。だから、ボクは成長と変化を望む。

ただ、その理想にとらわれて、自分にムリをするようなら、それは誤解だろう。その誤解は、やがて自分を壊しかねない。

優先されるべきは、他人か?あなたか?いや、違う。

ボクだ。

ボクにとって、最も大切なのはボクだ。

もちろん、子どものためなら命を差し出す。だけど、それ以外の些細なことなら、優先すべきはボクにとっては、ボクだ。

自分の人生を輝かせるために生きることに罪悪感を抱く必要はないだろう。

それに、ボクは独り身だ。なおさら自分のために生きて良いだろう。

独善的にあらず

自分勝手なことを書いたけれど、これは何も私利私欲で言ってるわけでもない。

自分を犠牲にすべきところは犠牲にすればいいし、そうしている。

逆に、犠牲にし過ぎてしまわないように、自分勝手になろうって話だ。

触れ合えば愛を与え、愛を与えられれば感謝して、慎ましく生きながらも、自分には素直でいる生き方。

これが理想だ。

そして、これは嫌われることもあるだろう。

だからこそ自分に素直に生きる。自分を愛する必要がある。同じくらいに他人を愛する必要がある。

自分をとことん愛せれば、嫌いな人にさえも愛を持てる。

嫌われることを意にも介せず、自分も人も愛せたら、それこそ嫌われる勇気を持てたと言えるのではないだろうか。

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