幼少の頃、祖父はとても人情のある人で、自身が若い頃にお世話になった叔父や叔母を敬い、旅行に連れて行ったり、食事に連れて行くなどをしていた。
そういう経緯があったから、正月やお盆になれば、その子どもたち、僕の親世代の人たちは祖父の家に集まり、毎年顔を合わせていた。
それこそ30人以上が集まるような宴会だった。
だけど、祖父が亡くなってから、そんな集まりもなくなった。
それは、時代的な価値観や人間関係など色々な理由はあるだろうし、冒頭の物理的な距離もあるだろう。
親世代にもそこまでのことを出来る人がいなかったし、僕らの世代にもいない。
そもそも、このような集まりは今となっては稀有なもので、村社会の延長にあった風習とも言えるから、交通網が発達した現代では、人々が拡散して散り散りになっていることで自然消滅しても仕方なかったとも思える。
そんな中で、それでも人を集める力を持つのが、「死」だと思うわけだ。
家族葬が中心の現代でも、やはり人の死は人を動かすだけの力がある。死がもたらす影響力が感情を大きく刺激し、さらに行動力にまで及ぼすわけだから、とても強い。
人が集まらないように配慮する気持ちは分かるし、ご時世的にもそう判断することが当たり前にはなっていくだろうけど、だとしても、本当に家族だけってことはなく、故人の親兄弟は動く。
死はネガティブなことだと思うけれど、人を集める、人を動かす影響力としてはとても大きな力を持つし、それだけ大きなネガティブ故にポジティブに転換させられれば、それもまた大きな力になり得る。
例えば、追悼ライブとか、これもネガティブからの発信だとしても、ポジティブなことだろう。
また、生きなければならない僕たちは、必ず死を乗り越えて、受け入れて行かなければ、前に進めないから、人の死が個人に与える影響ってのは、やはりネガティブばかりじゃない。
いや、むしろそれは人の持つ強さなのかも知れない。
生きることに繁殖以外の意味を見出せるのは人間だけだし、死に終わりだけじゃない意味を持てるのも人間だけだ。
いわゆる作話という能力が現代人とそれ以外を分けた決定的な違いだと言われるけれど、本当にその通りなんだろう。
こうして死について考えたり、そこから生きることについて考えたりなんて、生物としてはなんの意味も持たない行為だけど、それをしなければ人は生きられないのだから、不思議だ。
自分の死を受け入れて過ごし、人の死から生きる意味を学び、また明日からも自分の人生を生きていくことが、歳を重ねながら生きていくってことなのかも知れない。
先祖供養とか八百万の神とかも、そういった死生観から生まれたものかも。
不謹慎かも知れないが、生死について考えるのは意外と面白いものだ。
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