まったく望みのない人生とまではいかずとも、何かしらの望みを諦めてしまうことは、楽なのだろうか?
望みをエゴだと片付けるのは、あまりにも乱暴過ぎないだろうか?
でも、望まないことで楽になるのは確かでもある。
ただ、毎日を享受できる生き方は幸せだし、どことなく悟ってるような感じもする。
だけど、これはまやかしじゃないだろうか?
望まないと言うのは、成長放棄にならないだろうか?
望まなければ、障害なんてないのと同じだ。
でも、障害がなければ、成長はない。
ボクは人間の喜びは成長の先に無限にあると考えている。
だけど、望まなくなることは、その喜びをも放棄することだ。
望み、成長し、喜ぶ。これが生きることの幸せで、人生を豊かにする手段の一つ。最も効果は高いかも知れない。
また、望み、成長を手助けし、共に喜ぶ。これも至高の幸せと言える。
良き教育者とは、この喜びを実現できる人だろうと思う。
望むこととは、学ぶことでもある。
学ぶとは、知識と行動のセットだ。
知識を溜め込んでもクソの役にも立たない。
知識はアウトプットしなければ、時間の無駄になる。
アウトプットとは、誰かのために発信すること、自分のために行動に移すこと、そして、誰かを導くことだ。
望むことを他に求める人は、教育者たらんとしなければならないし、その覚悟なく、他者に望みを求めることはエゴになるんだろうと思う。
だから、教育者は大変だ。
己にも望み、他者にも望むとは、それだけ崇高なことなのだろう。
望みを諦めることは、楽かも知れないけれど、それはもしかしたら、自分だけでなく、他者をも不幸にするのかも知れない。
なぜなら、それは誰かの成長のキッカケにならないという選択だからだ。
自分が望み、成長するならば、そして、アウトプットをするならば、教育者たらんとする自覚を持った方が、より人生は豊かになるだろう。
それを生業にするならば、余計に望みを諦めてはいけないなと思う。
自己成長だけに留まらず、他者にもその機会を与え、導けるだけの覚悟を持って、崇高な場所での喜びを得る人生を歩むことをしなければならない。
人に教えるとは、至高の喜びだ。戒めよう。
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