それは、怒りという感情と対峙できないというものだ。
怒りが向けられた途端、何も言えなくなる。言葉が出てこなくてなって、思考もほぼ停止する。
なぜそうなったのか、なんのためにそうしているのかは分かっているけれど、そこから先にどうやって進めば良いのかがいまだに分からない。
僕は怒りと向き合えるのか?
原因は、幼少期にある。
父親からの説教が実に長かった。どれくらい長かったのかというと、校長先生の訓示よりも遥かに長かった。
朝が昼になるくらいと言っても過言ではないくらい長い時間の説教を喰らっていた。
子どもの反論など大人に敵うはずもないし、父としては威厳もあったんだと思う。当時は、母方の祖父が厳しくて、優しくて、僕らを殊の外可愛がってくれていたし、目にかけてくれていたから、父としては面白くなかったんだろう。
だから、ここぞとばかりに怒ったのかも知れないが、裏目に出たというわけだ。
子どもの教育とはかくも難しい。
結局、父の説教はやり過ごす以外に方法がなく、長すぎて母が止めに入ってようやく解放されていたと思うが、今思えば、母が来るのも遅すぎる。
とにかく、この頃から僕は「怒られたらやり過ごす」というスキルを身に付けた。
そして、これが何のためにかの理由でもある。
怒りという感情に対して、やり過ごすしか方法を知らないから、僕が何を言っても相手の怒りは収まらず、ただ黙ってやり過ごすしかないと植え付けられている。
だから、条件反射のように脳のスイッチが切られる。
その間、何も考えていない訳ではないけれど、それを言葉にしてはいけないと思うから、口は動かない。動かしたくても動かない。
このクセは直したいんだが、直し方が分からない。もはや病だから、治すが正しいとも思う。
なぜ何もできないのか?
原因も動機も分かっているなら、その幼少の頃の自分を解放してあげれば良い。自問自答のメソッドに従えば、それで良いはずだけど、それが出来ない。
謝ることも、意見を述べることも放棄してしまうのは、なぜだ?
それをする以外の方法はないのに、それすらしないで怒りから逃げようと黙るのはなぜだ?
黙ることは何も意味がない。むしろ、マイナスにしかならない。
なぜその選択をずっとしている?
何か勘違いしているのか?
防衛本能のように働くということは、それで自分を守ろうとしているのだろうか。だけど、良い結果を生んだことはないし、結果的に悪い方へ向かって、今もなお苦しんでいる。
怒りという感情が僕にないら訳ではないから、未知との遭遇で恐怖してる訳じゃないだろう。
何が怖いのか、、、
あぁ、きっと僕は反論されることを恐れている。
父は頭が良い人だから、子どもが何を言っても論破されたし、論破されることで、自分の意思を認められないということのように感じていたのだろう。つまり、どうせ自分は間違っている。と思ってしまう。
間違っているから怒られているのに、さらに間違ったことを言って余計に怒らせるくらいなら、何も言わずにいる方が、自分を責めずに済むと思ったんだろう。
最初の間違いの分だけを責めるくらいで留めなければ、自己否定してしまうとでも思っているんだろう。
それが大きな間違いだ。
怒りもひとつのコミュニケーションだと捉えれば、そこでキャッチボールがなければコミュニケーションが成立しない。
感情というのは、表現方法のひとつであって、真意はいつも言葉の中にあるのだから、言葉に耳を傾け、相手の感情には飲み込まれないようにすればいい。
その方法は知っている。
相手の感情は、僕の感情ではないし、感情は言葉そのモノでもない。言葉を彩るモノでしかない。思いをわかりやすく表現するためのモノでしかない。
だから、言葉を受け止めるのと同様に、怒りも受け止めればそれでいい。理解しようとはしても、自分の感情のように消化する必要はない。
冷めた言い方になっているかも知れないが、感情に飲み込まれると萎縮するから、僕なりに怒りと向き合うには、今はただ受け止めるしかない。
言葉と感情を受け止めて、言葉だけを咀嚼して、反応するようにする。
そして、何より怒りという感情は、勝手に生まれ出るものではなく、僕が何かしらの原因を作っているのだから、思考停止する前に素直に謝ることだ。
それこそ条件反射的に謝るべきだ。
ん、もしかしたら、僕は自分を責めたくないから、謝ることもしないようにしているのか?
ここにきてまだ出るか、、、
素直に謝るということ
確かに、謝るという行為は、自分の非を認めることだから、自分を責めることと似ているけれど、別に非があるからと必ず自分を責める必要はないだろう。
むしろ、責めるよりも改めるためにも非は認めるべきだ。
つまり、謝るということは、自分が成長するための第一歩なのだから、そのために非を認めれば、そこから次のステップとして、どうすれば同じ過ちを繰り返さずに済むのかを考えることができる。
最初から非を認めようとしていなければ、悔い改めるなどという発想に至らない。だって、自分は悪くないと思いたいから、非を認めないってことなんだから、、、
なるほど、自分を責めたくないという思考が変な方向へ歪むと、自分を悪いと思わないという思考に至ってしまうわけだ。
そう考えると、確かに自分は悪くないと思いたがっている僕はいる。
何でも自分のせいだと思い、それを背負っていたこともあるけれど、その時はある意味投げやり気味だった。つまり、これも逃げるためにそう思うことにしていたのだ。
これでは何も解決されない。
自分を大切にするとか、守るってのは、そういうことではないだろう。
怒りに対して無になるというのは、自分とも向き合おとしていないってことか。
もう一つ付け加えれば、僕は怒りに感謝していないんだな。
萎縮してる時点で、相手を悪者にすることで自分を守れるという思考回路になってるわけだ。
そういうことだ。
相手が怒った時には、感謝を持って謝る。
謝るということは、自分の非を認め、相手への尊重を欠いていた無礼を詫びることだろう。
と言うことは、相手を尊重する心を持てるからこそ、感謝できると言える。いや、感謝とは相手を尊重できる心のことを言うのか。
相手を尊重できる心は、確かに有り難いものだし、故に感謝は「ありがとう」と言うのか。
普通に生きていると、感謝を忘れがちだ。
幸せな時は感謝できても、ふとした瞬間、思わぬ瞬間には感謝を忘れる。
自然と感謝できているつもりでも、その実そうではない。
怒りという感情にも感謝できるように、僕はもっともっと謙虚にいよう。
怒らせてごめんなさい。
怒ってくれてありがとう。
このふたつの言葉と想いを胸に刻んで、今から生きます。
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