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これから先の物語

女神ちゃんに「バカ」だと言われた。
それを否定も肯定もしないし、腹が立つわけでもない。

だけど、本当にバカだったのか?と考えると、ひとつの答えが見えた。

僕は2019年8月に死んでいる。

あの日から、僕はシンドいと思うことをしなくなった。

だけど、人生においてシンドいと感じるようなことがなくなることはない。

だから、シンドいと感じたとしても、それを意も介さずに乗り越える強さがあれば良いだけだ。

そういう強さを手放した。

と言えば聞こえはいいが、そうじゃない。

目をそらすことにしたのだ。

シンドさから目をそらし、自分の中でないことにしてしまえば、こころが傷つくことはない。

自分を殺した頃の自分に戻ることもない。

こころのシンドさは二度と味わいたくないと思った僕の生きる術だったのかも知れない。

だけど、2021年3月から、僕は自分と向き合うというシンドさを始めた。

これは、今までのシンドさとは違う感覚のものだ。

過去に感じていたシンドさというのは、責任というものだった。

長男という責任、兄という責任、社長という責任、夫という責任、親という責任、信頼へ責任を負うことが僕を殺した。

と言っても、別に責任に殺されたわけでもない。

責任だと感じてしまう僕自身が僕のこころを殺してしまったのだ。

そういうことも、僕は自分と向き合う中で知った。

誰かの責任にしたかった。

でも、本当は全部僕の責任だ。

勝手に責任を感じて、勝手に死んでいった。

そういった自分の弱さを知るシンドさは、楽しかった。

シンドいけど、楽しいから、今でも続けられているんだと思う。

そして、僕は「なぜバカと言われたのか?」を考えた。

そうすると、2019年8月以降、僕自身が自分のこころを守るために、無責任になることを選択していることに気がついた。

無責任は楽だ。

なぜなら、後先なんて考えなくていいから。

そして、それが癖になっているんじゃないかと、、、

無責任でいられるのは、誰かに守らている内だけだ。

死んだ後、1年半ほどは守られていた。守られることでしか生きられなかったんだと思う。

ただ、僕は、そういったことも嫌になって実家を出たはずだった。

だけど、いまだにその感覚が残っていたってことだ。

そうだ。

当たり前のことだけど、目の前で起こることは、すべて僕の責任でしかないのだ。

にも関わらず、それを考えようとしなかったのだから、バカだったわけだ。

この一年間僕がしてきたことは、自分の中にいた過去の経験が作った自分を知ることだった。

そこまでの僕はバカでも良かった。

だけど、これからはそうじゃない。

自分で歩き出した道だ。

この道を征くと決めたのは、僕しかいない。

責任が重ければ、重くなる前に誰かに頼っても良い。

頼りたくないなら、背負えるだけの責任を選べば良い。

自分の中で勝手に責任を背負いすぎなければ良い。

そのために、自問自答を繰り返してきた。

ちょっと自分の方ばかり向きすぎていたキライはあるかも知れない。

僕は、人は自分のことしか分からないけれど、自分のことさえ分からないから、誰かに支えてもらいながら生きていくんじゃないかと、(これは最近気付いたことなんだけど)そう思うようになった。

でも、その中で自分を知る努力をすることで、支えてくれている誰かのことも支えられるだけの自分になれると信じているから、それを繰り返している。

それは責任とかそんなことじゃなくて、感謝だろう。

支え合うってのは、感謝しているから恩を返すってことだ。

自分のことばかり考えたり、逃げることばかり考えるのは、感謝も恩もない独りよがりだ。

そんな世界が嫌で飛び出したんだから、もういい加減、目の前の世界をしっかりと見ないと。

僕が今いる世界は、僕一人でたどり着いたものではない。

女神ちゃんがいたからやってこれたし、女神ちゃんにいてほしくてやってきた。

ここでもう一つ階段を登るってことなんだと思う。

1年間過去を振り返ったんだから、これからは今を生きる僕と、女神ちゃんとの明日をしっかりと見据えて生きる。

明日から、新しい部屋に移る。

と言っても、引っ越しは徐々にだけど、そこから始まる物語は、ちゃんと自分の手で描かないといけない。僕は守られる側から守る側になったのだ。

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