今日までの四日間は、濃密だった。自分の人生を変えるようなことが毎日起こっていた気がする。その辺りは、今後長々と書き綴るんだけれど、そんな日々に想いを馳せる中、冒頭の質問が浮かんだので、まずはそっち。
ボクはたくさん捨てて来た。主に過去の自分の持っていた執着だったり、嘘だったりするんだけれど、それをしてまで、何を捨てようとしているのか?
逆に、ボクの得たいもの、それは何度も書いているけれど、「自由」だ。そこには一点の迷いも翳りもない。
答えが明確なので、自由から掘り下げて、捨てたいものを探そうか。
ボクの得たい自由というのは、独りよがりな自由ではない。自分一人が良ければ、それで良いってものではないのだ。
では誰のための自由なのか?それは、ボク自身だ。それは間違いない。だけど、そこには信念がある。
ボクが自由になることで、3つのことが成せると、ボクはそう感じるから、自由を求め、手に入れようとしている。
まずは、ボク自身が成せるってことだが、自分が自由と感じられることで、ボクは不要なストレスから解放される。解放されれば、ボクは自分のことに、より集中できる。そこではじめて自分のために成せることが増える。
ちなみに、不要なストレスと言うのは、ボク自身に問題があることもあるが、外的要因もやはり多い。
そこからの解放がボクにとっての自由となる。
具体的に言うと、不要なストレスの代表は、コンタクトだろう。ボクは、電話が嫌いだ。「そんなに電話ってかかってくる?」と思う人もいるかも知れないが、まぁ聞いてくれ。
電話が嫌いなのには、理由がある。その理由から、コンタクトからの解放の意味も分かるだろう。
ボクが電話を嫌いな理由は、他人の勝手でボクの時間を奪われるからだ。なので、ボクとのコンタクトは、メールにしてくれ。LINEにしてくれ。ってことなんだけど、さらに言えば、仕事でもなく、自分からしたい訳でもないメールやLINEなら、返信は気まぐれにしたい。既読スルー→3日後返信とかで許してくれ。そんな世界に生きようとは思っている(笑)
これは、対面も然りだ。わざわざ呼んでもないのに、会いに来なくていい。自分のワガママや言いたいだけのことのために、自分の貴重な時間も、ボクの命も割かないで欲しい。時間は命だ。
だから、ボクは孤独を好む傾向にある。孤独でいる時間は自由だからだ。こちらに会う理由も話す理由もなければ、基本放置プレー。こんな世界を望む。自分の望まないコンタクトは、本当に嫌いだ。だから、コンタクトからの解放は、ボクにとって最高の自由と言える。
ボク自身が成せるというのは、自分のことだけに集中できて、素直な自分のままで生きられるってことだ。その為に、自由を求めることに、何の問題があるのか?ほら、無問題。
では、残り2つの成せることだが、ボクが自分のことだけに集中できるってことは、ボクの成長と変化を約束することになり、それはボクの幸せである。
成長と変化はボクのライフワークだから、ボクは自分の幸せのために、やり続けなければならない。常に幸せでいたい。
その事で、ボクが毎日を楽しく生きていれば、その姿を見た子どもたちはどう感じるのだろうか?きっと、いつも何かを我慢してムリして笑っていたパパよりも、希望を感じられるだろう。勇気も与えられるだろう。
親の苦しむ姿を見るよりも、楽しんで生きてる姿を見る方が健全な子に育つだろう。もちろん、自分勝手な振る舞いを子どもにまでするわけではない。
守るべきとこは守る。助けるべきとこは助ける。誰よりもあの子たちの人生を考えているのは、ボクと元妻だ。第三者からの教育方針の押し付けもごめんだし、考えてないと言われるのも虫酸が走る。
子どもの幸せは自分たちの手で掴んでもらうものだから、ボクはアドバイスこそすれど、ボクの幸せを押し付けはしない。価値観も押し付けない。
ただ、ボクの背中を見せる以外に、日常生活において、親としてできることは、離れている以上、他にない。ボクはボクがそうあるように、「自由に生きろ」と言うことを伝える。
彼らがボクとの生活を望むなら、それに応える努力をするし、そうでないなら、会える時はボクなりのパパとしての接し方をする。
子育てに正解はないから、ボクにはボクなりの接し方しかできないし、ボクの生き様でしか彼らに伝えることはできないのだから、ボクは自分のために自由になる。それが、回り回って、子どもたちの教育を成せるからだ。
最後は、女神ちゃんとのことだ。ここもボクが成長と変化を続ける限り、彼女との幸せも成せる。成せる幸せは、結婚って意味ではない。
生涯の伴侶ではありたいが、結婚という束縛はいらない。その為にも、ボクは自由に生き、成長と変化を続ける。
そういうボクであり続けることは、彼女にとっても喜びだし、2人の幸せにも繋がる。ボクも彼女も互いが大事だし、好きで愛しているのだから、やはりボクはライフワークを続ける。
盲目的にそう思ってるわけではない。そのためだけに成長と変化をしてるはずもない。ボクは、自分の自由の先に、自分自身のこと、子どものこと、女神ちゃんのこと、この3つが成せると思うから、自由で生きている。
では、ここまで自由を求め、捨てたいものは、その本当の姿はなんだ?
それは、期待だ。ボクに対するボクの望まぬ期待。つまり、自分たちのエゴによる期待。
ボクの人生はボクの責任のもとで、ボクだけのものだ。その人生を自分らしく生きるためには、他人視点からの期待は要らない。ボクの成長に期待されることは望ましいが、そこに物差しは要らないし、勝手な理想像で期待されるのは迷惑だ。
ボクが期待するとしても、ボクの望むあなたの姿を期待はしていない。あなたのために成長してくれることは期待するけれど、そこにボクの為である必要は一切ないのだ。
人は、ついつい自分の物差しで、相手を見てしまう。その時には、勝手にフィルタリングしているから、自分の都合の良いような相手を理想としてしまう。
だから、期待にもエゴが入る。
そんな期待は、期待とは呼ばない。妄想による決め付けだ。
だから、自由に生きるボクにとって、他人のエゴによる期待は邪魔でしかない。捨てさる。捨てきる。なんなら見捨てる。
他者に期待をすると、その期待通りに行かなければ、裏切られたと感じるだろう。いやいや、そもそも相手に理想像を押し付けといて、勝手に裏切られたって、お前がどんだけ自分勝手なんやってことだ。
そんな期待は捨てられて当然だ。
ボクは他者からのエゴな期待を捨てたいから、自由を求めたんだろう。そして、自由の準備を手にするために、期待を捨てるんだろう。
自由を求める本当の理由が分かったので、今宵は寝る。おやすみなさい。
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