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死を願うよりウソを口にしたい

死んだら楽になると考えたことは何度もある。

若い頃はそんなことはもちろんなかったけれど、きっと自分に存在価値があると思えないからだと思う。

自分が夫でも親でも子でも兄でも友人でも、ボクが死んだとて、誰しもがいつかは笑って生きていくしかないのだから、死に意味などないとも思う。

だから、ボクは自分の命に価値などないと思うから、生きることに執着できないんじゃないか?それが存在価値にも繋がってるような気がする。

生きた証を残したいとか、一人でも多くの人に死を涙してほしいとか、そんな思いを抱けるなら、生きようと思えるだろう。

とは言え、生に執着してないから死にたいわけではないし、食欲も性欲もあるんだから、余計に自分がわからない。

まぁ、自殺とか他殺で命を落とすなんてことは嫌だし、かと言って自然死なんて、まだ先だろうからね。

死を望む訳ではないのに、生きよう!ってことに前のめりになれないってのは、なかなか苦しい。

何か理由はあると思う。

僕が「死んだら、、、」と考えることに対して、「これは生に執着してないのでは?」と思ったのは、例えば、運転中に橋の上でハンドル切ったら、、、とか、走行中のドアを開けて飛び出たらとか、、、なんか死に向かうイメージをしてる自分に気付くからだ。

そんなことを考えるのは、「死んでもいい」と思ってるからか?と思うわけ。

これは、死にたいと思うこととは違う。

だから、悲しくもなった。

そりゃそうだ、自分が惨めになる。

40年間も自分なりに生に執着して生きてきたつもりだったけど、死んでもいいと思ってるなんて、、、

ただ、もう一つの仮説がある。

僕は死に向かうことを願いとして望んでる訳ではなく、もしかしたら、「今、これが起こったらどうなる?」を楽しんでるんじゃないか?

つまり、想像の世界を創造しようとしているのではないか?

それをなんらかのカタチで実現したいというのが、望みなんじゃないか?

これは、幼少から変わらない趣味だ。

空想。

そんなものをカタチにはできない、、、とたくさん諦めて来たんだけど、、、

頭の中に浮かぶイメージを言葉にするくらいなら、今の僕でもできるんじゃないか?

それが死さえも超えて、僕の生を滾らせるんじゃないだろうか?

そうだ、、、僕は自分に「嘘」を世に広げてはならないとか思って、可能性を排除していた。

別に、僕が「空想」というテーマで何を語ろうが、それは自由、、、そこに歴史とか絡めたって良い、、、

どうやら、僕は、空想という名のウソを付いて生きてみたかったんだろう。

悪くないどころか、気が楽になった(笑

空想物語、、、いや、このブログだって、そもそも心の中の空想を書き出すところから始まったんじゃないのか?

そして、今日でめでたく2年目を迎えた。

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