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僕らが本当に信じるべき対象は何か?

僕は目に見えないもの、見たことがないものに対して信仰することはない。

だけど、僕は信仰心はある方だと思う。

僕が言う目に見えるもの、見たことがあるものとは何か?僕が信仰する対象とはなんなのか?

自分以外は信じないという生き方

僕は人から言われたことをあんまり信じない。

いや、信じないと言うか、すすんで信じようとはしない。

なぜなら、他者の言葉はアドバイスでしかないし、その人の価値観で語られても、僕の価値観とは異なるからだ。

相手もそのことを理解してくれていれば楽だけど、大概の人は自分の信じることは素晴らしいと思い込むから、他人にもその価値観を強要するか、もしくは、押し付けがち。

さらには、少しでも賛同したら同じ価値観を持っていると思い込みがちだ。

そんな訳ないだろ。

僕らは兄弟でさえ違う価値観を持って生きているのに、ましてや他人をやだ。

似通った価値観はあるかも知れないが、それとて似てるだけで同じだとか思うのは押し付けがましい、厚かましいと、考えるべきだろう。

よって、僕は人の言葉をまんま信じることはない。とは言え、拒否もあんまりしない。受け入れるという態勢で生きてるからだ。

自分の中で咀嚼して、僕の価値観に合うようなら、とりあえず受け入れて、合致するか考える。

そして、自分の価値観に見合うものだけを頂く。つまり、イイとこ取りする。他は不要だ。

何を信じ、何に仰げばいいのか?

僕の価値観では、僕らが信じるべきは目に見えるものだ。

それは、愛する人であり、祖先であり、山や川や海のような自然、そして空の上に広がる宇宙などだ。

だから、僕は先祖供養は大切だと考えている。だからと言って、宗教が大切だとは思わない。大事なのは、こころ構えだ。

それを教えるのが宗教だと思っている。だから、それ自体が素晴らしいことではなく、その知識が尊いだけだ。

たぶん、かつて親戚が宗教に食い物にされたってこともあるから、それ故に僕は宗教という小さな枠組みを信用していないんだと思う。だけど、仏教も神道もその思想は好きだし、自社仏閣へもすすんで参拝する。

よって、八百万の神も信じている。彼らは目に見える様々に宿るとされているからだ。

そういったモノを信じるこころが大切なのであって、それ以上はエゴだと思っている。カタチにこだわる意味はない。

とりあえず、こころを込めて、手を合わせて、拝むだけでも素晴らしい。

なぜなら、彼らは何も求めていない。あなただって求められたこともないだろう?

神様が拝み祈れと言うだろうか?ご先祖様が祈らないからと呪うことなんてあるだろうか?

そんな世俗的な神様や、エゴ的な先祖などいるはずがないと信じているから、僕はカタチにはこだわらない。

そして、自分の目に見えるものしか信じないのも、それ以外のものを信じることはエゴだと思うからだ。

ちなみに、目に見えるものと言っているけれど、僕は僕自身は見えているから、僕が信じるに値すると感じたものは、時間だろうが愛だろうが信じる。これはエゴとも言えるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもない。僕自身の信仰は自由なのだから。

自分だけを信じる

つまり、こういうことだ。

僕は、自分しか信じていない。だから、僕は自分の愛する女神ちゃんのことは信じている。僕が信じているのだから、女神ちゃんは信じられる。

伝わっているだろうか?

自分が信じられるもの以外を信じる必要なんて全くないし、それを他者に強要したり、同調させる必要なども全くないのだ。

なぜなら、自分を信じる以外のことは僕たちにはできない。人の心を変えることはできないからだ。

でも、自分さえ信じられるなら、それは素晴らしいことだろう。それこそが自信なのだから、大いに自分を信じればいい。ただし、法の下で。

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