例えば、相手を傷つけないようにと、優しさを発動して、発言一つ一つに気をつけようとすると、もう自分の言葉ではなくなるから、積極的な、攻めの姿勢は失われる。そうなると、そこに愛はあるのか?と違和感が生まれる。
愛があるから優しくあろうとするはずなのに、優しくあればあろうとするほどに、大切なものも失われていくというのは、怖い。
優しくあることは、消極的というわけではないんだろうけど、優しさの種類にも色々あるってことなんだろうなと思う。
ようは、気を使うことと、気を使えることは似て非なるものってことだ。
考えてみれば、ボクは気を使って消耗し、消耗するから失敗しと、二重三重の傷を負う結果が多かった。
傲慢であるべきところは傲慢でなくてはならないんだろう。傲慢であるべきところで傲慢でなければ、優しくすべきところで傲慢になってしまう。これは失敗の素だ。
そう思えば、積極性がなくなったのは、今に始まったことでもないんだろう。
これは、人の顔色を伺うという悪癖の結果だと思う。
これは処世術でもなんでもないんだが、なぜこんなものが身に付いたんだろうかと、自分の人生を訝しむしかない。
掘れば出てくるんだろうか。
いや、掘らずとも原因はわかってるか、、、
小学生の頃から、かつては病弱だった母親の様子を伺いながら生活したり、一度説教が始まったら2時間は終わらない父親の顔色を伺いながら生活していたんだから、どう考えても両親の教育の賜物だ。
この体験は、本当に色々な面で支障をきたしている。
これだけで何本か記事を書いてるし、相当根深い。
ん〜、これはもう少し掘り下げて考えるべきことではあるなぁ。
独り言で掘り下げてみるか、、、
優しくて積極的で愛を持った人になるためには、この根を完璧に断ち切って、今の自分、これからの自分とは関係ないってことを心から理解しないといけない。ってことで、独り言(パスワード記事)に続くので、見れない人たち(99%の読者)は、想像でお楽しみください。
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