ほんまにそうなのだろうか?
偽りの優しさとエゴは両立する?
でも、本当の優しさとエゴは両立しない?
いや、どっちも両立すると思うんやけど。。。
無償の愛ってのは、確かにあると思う。
でも、例えば親子間のそれって「この子に健康的に育って欲しい」とか、「明日を笑顔で過ごして欲しい」とか、「生きて欲しい」とか、親の願いは込められていると思う。
これって親のエゴじゃないのか?
幸せを願うならエゴじゃないのか?
それともただ願うだけならエゴではないってこと?
言葉で考えれば、エゴってのは、自我の意味やから、別に願うだけでもエゴに該当するよね。
だったら、やっぱり優しさもエゴの元に行われる言動じゃないのか?
結局、優しさもエゴも自分の中だけで完結していれば、それは何の問題ないし、相手が好意的に受け取ってくれても問題はないってことで、相手の受け止め方次第によっては、優しさもエゴになるし、エゴも優しさになるってことだ。
大事なことはエゴを優しさと勘違いしてはいけない。
そして、優しさがエゴにもなるってことを考えていなければならない。
これを日本人は「思いやり」って言うわけか。
ただ優しいだけでは、相手を傷付けてしまうこともある。
傷付けまいとすることで、余計に相手を傷付けてしまうこともある。
優しさからのガマンをしていては自分を傷付けてしまうこともある。
ガマンしないのはエゴだけど、ガマンし続けることは自分を苦しめる。
だったら、相手にはガマンしなくても受け入れてくれるだけの優しさを求めればいいし、逆に自分はそれだけの優しさを持てばいい。
幸せになるための優しさを持つことはエゴだけど、そのエゴは優しさ故なのだから、自信を持って優しさとエゴを持ち合わせて生きればいいってことだ。
やっぱ
優しさとエゴは両立するだろ。