愛と憎しみの狭間で
これまで、ボクは愛についての記事では、どことなく自分を犠牲にしていたのかも?と思う節もあるし、愛だからピュアという意識がどこかで働いてきたんじゃないのか?と思うようになった。
愛しているという事実だけに目を向けていては、いけないんだろうなと。その先に本当の自分を隠しているのでは?と。まさに愛は盲目なのだ。
だけど、ボクには見えた。愛するが故に生まれてしまう憎しみの片鱗が見えた。
この憎しみというのは、何も相手を実際に憎んでいるんじゃない。ただ、愛することの裏側には憎しみが生まれることを知り、その憎しみを認め、受け入れてあげなければ、苦悩するぞ?と思ったわけだ。
憎しみと言うのは、究極、「殺してやりたい」という根深い感情だ。
だから、愛とは相反する。それをどう理解すれば良いのだろう?
愛しているから、優しくあれる。愛しているから、尊重もする。問題はここだ。
尊重するとは、相手を肉体的にも精神的にも自由であっていいと認めることとも取れる。だけど、本当にそうか?
それだと、自分は捨てられてもいいとなる。ボクにはそれが耐えられないだろう。これまでにも何度も捨てられて来たけれど、それらはクズ故に仕方がなかった。
でも、クズな自分に気付き、いまだ成長を続けているボクにとって、それでも捨てられることは、自分の全否定となる。もはや、そこから再起不能なんじゃないのか?と、想像するだに恐ろしい。
愛せば愛するほどに、その反動は大きくなる。
だから、愛し切れていないとも言える。
だから、憎しみにも目を向けなければならない。
なぜなら、捨てられるということは、相手に裏切られたと感じるだろう。ならば、相手を恨むはずだ。憎しむはずだ。
愛の先には憎しみが孕むことがある。これが事実だ。これを認めなければいけない。
そして、さらに言えば、いつか捨てられるかも知れない恐怖を拗らせると、憎しみは殺意に変わることも知っておかなければならない。
自分のものにならないのなら、誰かのものになるくらいなら、自分を見捨てるのなら、見捨てられるくらいなら、相手を殺す。というサイコパスへの道筋は、誰しもに起こり得る。そのことを自覚しておかなければならない。
そんな自分も想定しつつ、愛に生きることが出来なければ、得体の知れない恐怖に怯え、愛することに苦悩するだろう。
そう、ボクは無意識で愛する貴女を憎むことを恐れている。だから、そんな起こり得る未来を認め、受け入れよう。
ボクだって人を憎める。貴女さえ憎しみの対象になる。それも、エゴ故にそうなる。ボクはそんな人間だ。
だからこそ、ボクは貴女への愛をより深める。そして、その愛を広げる。自分の中の憎しみさえも愛せるほどに大きくする。
貴女を愛おしむということは、貴女を憎む覚悟を持って成り立つ。ただ、憎む自分に飲まれぬよう、愛をも成長させなければならない。
そのためにできることは、貴女と愛を持って接し、愛を持って貴女の愛を感じることだ。憎しみさえも愛に変えて、ボクは愛を深めたいと思う。
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