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古事記に隠されたあなたが幸せになる方法

古事記の国産みの最初は失敗したって感じの話がある。

聖婚の場所で結婚し、不具の子である水姪子(ひるこ)を生んだ。

この子は、葦(あし)の船に乗せて流し棄てた。

古代日本まとめ

失敗したから、その子を海に流したと。

あなたが幸せになれる教え

ここの解釈で、すごく深いなぁと感心した考察があったので、それを紹介すると共に、僕なりの補足も述べようと思う。

補足と言っても、古事記のことに関してではない。考察に対して僕なりの解釈を加えるってことだ。

その解釈は、僕がYoutubeで観ている「むすび大学」でされていたんだけど、、、

そもそもここで言う水蛭子(ひるこ)とは、僕たちが産まれる前、母体にいる時の胎児の姿を指しているのだと言う。

あ、ちなみに、これは解釈のひとつだから、事実ではないことを前提で読んでほしい。

その胎児の頃というのは、僕たちには覚えのないことだけど、稀に5歳くらいまでは胎児の頃の記憶を持つ子どもがいる。

これは、確かにいるらしい。僕の親戚でもそんな子どもがいたから、たぶん間違いではなんだと思う。

小学生に入る頃には、なぜか胎児の頃の記憶は無くなっていくんだそうだが、実はハッキリと記憶していなくても、僕たちはみんな胎児の頃の記憶を持っていると言われているらしい。

その胎児の頃の記憶というのは、羊水の中での記憶というよりも、母体の感情のようなものだと思う。

実際には何も見えないわけなので、母親の感情的な何かを汲み取っているのか、母親の感情をもろに受け取っているのか、いずれにしても、母を介して感じる何かを覚えている。

受精してからしばらくすると、いわゆる水蛭子と呼ばれるようなカタチとなる。そこから、各臓器などが形成される中で、勾玉のようなカタチになり、と、成長していく訳だが、古事記の水蛭子というのは、この頃のことを指しているって解釈なわけだ。

そして、その頃の母親の感情が穏やかであれば、または愛情たっぷりであれば、なんら問題なく、胎児は健やかに成長し、出産を迎え、赤子、幼児と大きくなっても健やかなんだろうけど、、、

胎児の頃に負の感情を与えられると、この頃の感情は脳裏に刻まれるらしい。

幸せの通過点となる負の感情

それを心理学ではトラウマとも呼ぶのだろう。

つまり、生前から負の感情により傷付けられた心のままこの世に生を受けるから、自分の記憶には何も不満がなかったとしても、「自分のせいで」なんて自責の念を抱えてしまったりするのだとか。

これって本人には原因が分からないから、単にネガティヴ思考な性格だと思ってしまうだろう。

もし、この感情が強ければ強いほど「自分なんて、、、いらない」なんて思考にも陥りやすいらしい。

でも、実はそうじゃないってことを古事記では書いている。

ところで、これを親のせいだと決定することで、解決するって考え方もあるらしい。

これはこれで良いと思う。

自責するのは生きるのがツラくなるだけだから、こころの中で親の責任にしてしまうことで、自責から解放されるなら、それはアリだ。

だけど、古事記ではこう書かれている。

「この子は、葦(あし)の船に乗せて流し棄てた。」

僕はここの解釈にとても感心したのだ。

ここで指す「この子」とは、もちろん水蛭子のことだが、それはここまで述べたように「負の感情によって傷付けられた胎児の頃の自分」と読み解くことができる。

その子を葦の船に乗せて流し捨てる。

つまり、水に流す。

伝わっているだろうか?

僕も含めて、僕たちは、自分が楽になりたいがために、とかく誰かを責めたりしがちだ。だからと言って、自分を責めるのもそれはそれでツラい。

だったら、どうすれば良い?

先ほど書いたような方法で、こころの中で誰かの責任にしても良いけれど、それよりももっと良い方法を日本人は古くから知っていて、それを教えとしても残しているってことにならないか?

水に流す。

もし、負の感情を川に流すことができれば、その感情は二度とあなたの元には戻ってこないだろう。

やがて大海原へとたどり着き、海の藻屑となるが、あなたはそんなことは知ったこっちゃない。その頃にはもう、忘れ去っていることだろう。

これは古事記の冒頭の方の話だけど、言わば「邪心を捨てよ」と説いているんじゃないだろうか。

古事記が人生における教訓を示す何かだとしたら、そう捉えても良いんじゃないだろうか?

しつこいようだけど、これは古事記の最初の方に書かれている話だ。

つまり,生きる上では邪心を捨てることから始めよってことだろう。

人を羨んだり、妬んだり、僻んだり、責めたり、貶めたり、罵ったり、傷付けたり、悲しませたり、裏切ったり、そんな諸々の負の感情は、最初に捨てろ。ってことじゃないのか?

そのような感情を捨て、支配されなくなった時、僕たちは本当の意味で生きていけるんじゃないだろうか?

慈しみ、愛し、喜び、楽しみ、嬉々とし、笑い、幸せで、健やかで、朗らかに、安らかに、そんな多くの正の感情を持って生きるには、まず捨てるべきものがあるってことだ。

負の感情は強い。僕たちを強く支配する。

だから、人生は苦しく、ツラく、厳しいものになりがちだ。

だけど、もし、そのような感情を捨てることができれば、もしくは、抑えることができれば、支配されずにコントロールすることができれば、あなたの明日からの人生はどうなるのだろう?

負の感情と向き合い続けた一年

そう思えば、僕は去年一年間は、負の感情と向き合い続けたと言える。

多くの場合、自分と向き合うことの最初は、負の感情との向き合いから始まるから、本当に何度も向き合ったと思う。

そんなことを一年間繰り返して、僕は今年、正の感情と向き合い始めている。

幸せとも向き合っているのだ。

僕の経験上、自分と向き合わなければ、ここ(幸せ)にたどり着くことはないと思う。

幸せは天から降ってくるものでも、地から湧いてくるものでもない。自分の手で掴み取れるものだから、その為に出来ることがあるなら、やるしかない。

なぜなら、僕は幸せで死にたい。笑顔で死にたい。

だから、これからも負の感情とは向き合い続けるし、同じように幸せとも向き合い続ける。

その上で、僕は思う。

あなたも幸せと向き合いたくはないか?と。

もし、あなたが幸せと向き合いたいなら、自問自答に取り組むべきだ。

古事記の時代から教えられてきたこと、負の感情を水に流す方法、それが自問自答なんだと、僕は確信している。

僕が一年間かけて見つけ、体系化した「自問自答のメソッド」が、よもや古事記にも通ずるところがあったとは思わなかったけれど、とどのつまりはこういうことなのだ。

人のこころは太古の昔から、何ら変わってはいない。

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