愛されたいはエゴか?
理想を言えば、人は生涯でたった1人の異性を愛し、愛されればそれで良いと思う。だけど、なかなかそんな出逢いはなくて、何度かの失敗も繰り返しながら、また、その都度「もういい」とか思いながら、また愛を探すことも繰り返してしまう。
結婚をし、子どもまで授かった後でさえ、何らかの困難に遭い、別れることもある。ボクはその1人だ。煩悩を抱えた1人の人間なのだから、仕方ないのだと思う。その経験からも多くの気付きと学びを得てきたし、そこからまた人として成長しようと思えるなら、恥じることもないだろう。
だから、恋愛を繰り返すこともある程度は必要なのだと思う。愛し愛されている状態というのは、とても幸福感に満ち溢れるし、毎日が楽しくなる。すべてに感謝したくなる。だけど、一方通行では、やがて惨めになるだろう。恨みや妬みも生まれるかも知れない。やはり、相思相愛でなければ、相手にも迷惑かも知れない。
そう考えると、愛されたいと願うことはエゴだと思う。アパリグラハ(不貪)に反するのかも知れない。ただ、自分に嘘をつかない(サティヤ)にも反しているように思うから、ボクはジレンマだと思った。愛してほしいと願っている自分と、愛を求めてはいけないと思ってしまう自分は相反している。
生涯を寄り添える伴侶
この先の思考は、ヨガの教えに則って考えるわけでない。ボクはまだ何もヨガの教えを理解はできていないので、今のボクなりの結論までを導き出したいと思う。
先ほどのジレンマはひとまず置いておこう。その上で、冒頭の「純粋に1人の人を愛し愛されたい」ということがエゴなのかどうか疑問だ。先ほどの「愛されたい」と何が違うのかって話だけど、「純粋に1人の人」ってとこが、ポイントなのだ。
「純粋に1人の人を愛し愛されたい」とは、言い換えれば、生涯を共にする伴侶が欲しいと願うことだ。これはエゴでもなんでもない。独身でいるほうがボク的にはエゴだと思うし、伴侶を得ることは自然の摂理だろう。生命の流れに従順だと思う。
理想は生涯に1人だとしても、それが叶うことは稀有なのだから、ボクはそういう出逢いを求めていくことは必然だと思っている。ただ、悲しいかな人は歳を重ねるから、生命の流れに従順という点では、年々この必然がそうではなくなっていくような気がする。つまり、生命の流れとは子孫を残すことだから、生殖機能が失われてしまえば、ここに矛盾が生じる。
だけど、これが「性欲」を持たなくなることになるのだとすれば、それでも伴侶を求める行為は、純粋な愛なのではないかとも考えられる。ただし、そこまでに自分を高め、寂しさからの欲求でない状態でなければいけないんだろうけど、人は1人では生きていけないから、これもまた難しい問題。
こんな風に考えると、何も考えず、独りでいるほうことを受け入れる方が楽だし、逆に高尚に囚われず、素直に生きる方が楽だなとも思う。
うん、高すぎる理想を見てしまうから、こういう苦しみを抱えてしまうんだろう。
成長を諦めるのではなく、今の自分が自然でいられる生き方、考え方で、素直に生きることが大切ってことだ。
知識を身につけると、ついその知識に翻弄されてしまうから、それはあくまでも目指すべき場所の一つであって、今の自分との間にある空白を嘆くことはないのだ。嘆いてしまうことはよくあるから、その自分こそ戒めるべきなのだろう。
そう、ボクはいつも今のボク以上のことは出来ないし、今のボク以上の考えを理解することもできない。ただ、ボクはボクであり続けるだけ。今在ることにだけ感謝をすれば良いのだ。
愛されたいというエゴのまとめ
無闇に愛されたいと願うことはエゴだし、一方的に愛しているから、愛してほしいと求めることもエゴだ。
だけど、相思相愛の関係、生涯の伴侶を求めることはエゴではない。互いに思いやり、慈しみあい、高め合える、そんな伴侶を得ることが人生の一つの目標だと、ボクはそう思う。
生涯を終えるその時に、隣で微笑みながら、「今までありがとう。お疲れ様でした。また次の場所でもご一緒させてください」と告げて今生でお別れしたいし、されたい。
その日まで、ボクは今の自分に優しくいよう。明日の自分のために、今日も感謝と愛を持って、徳を積んで生きよう。というのが、ボクの結論。
]]>