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もっともっとワガママに

心が広いことは大切だ。と思うんだけれど、本当に広いのかどうかは分からなくないだろうか?

広いと思われたくて我慢してたり、その広さは度量ではない別のことから来てたりするかも知れないと考えると、優しさってなんだろうか?と疑問に思う。

優しくありたい

誰しも優しくありたいとは願うだろう。

実際に優しくしている人もいるだろう。

でも、優しさは溢れ出るものだから、優しくしている段階はまだまだ足りないと言える。自然と優しくある状態こそが理想ってことだ。

かつて、僕は元妻の元カレの独立に際して、プログラムを組んだことがある。仕事だからって了承した訳でもないし、元妻にカッコつけたわけでもない。

元カレだからと言って、嫉妬も何も湧かなかったというだけだ。

その話を聞いた友人は「お前、スゴいな」と言っていたけど、何を気にする必要があるのか?と当時の僕は思っていた。

隠されていた思い

それだけで、僕は心が広いだのと評価されたりするわけだけど、あなたはどう思っただろうか?

今、僕が思うのは、これは優越感ゆえに許容できただけのことに過ぎないなと思っている。

つまり、僕はそれほど人間出来てないんだなと、反省もする程度の人間ってことだ。

どいうことかと言うと、元カレよりは夫の方が越に浸れるってことだ。それだけの話だったし、その程度の男だった。

カラクリを知ればてんで大したことはないけれど、それさえも思えない人間は多いだろうから、僕の心は広いと思ってもらえるなら、それに越したことはない。

ただ、僕はできる限り、これはカッコつけてることかも知れないが、できる限りは相手の過去と自分は関係ないんだと考えようとはしている。

過去に誰に抱かれただとか、誰を抱いただとか、そんなことに心を揺さぶられていては、身が持たないじゃないか。

だから、その人にそういった過去もあるからこそ、今、目の前のその人を愛せるんだと、半ば強制的な理解で感謝しようと努める方が、救われると思う。

だけど、僕は別に聖人君子になりたいわけでもないし、心が広いと思われたいわけでもない。

僕が幸せになる。そのためには、何を優先すべきか、優先すべきものが明確なら、それを徹底できる自分でありたい。

その為に無私になることを望まれるのであれば、それもさもありなんと受け入れられる自分になりたいと思っている。

ただ自我を殺すのではなく、自分の信じるもののためならば、自我も殺せる己でありたい。

素直に生きることとは相反するが、これもまたそうありたいと願う素直な自分なのだ。

だけど、これもただカッコつけてるだけなのか、、、もしそうなら、僕はもっとワガママで生きることを受容できるだけの自分になりたいとも思う。

ワガママと素直、これらを同じ感覚にしながら生きることがこれからの目標なのかな。

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