そして、翌日の10月6日、彼女は陣痛に襲われ、元気な赤子を産んだ。ステーキ効果だったのだろうか。
夫の名は修、妻の名は祐美子、そして赤ちゃんには「徳川家康を超えるような男に育って欲しい」という父の願望により、康司と名付けられた。
つまり、僕だ。
母方の祖父母の元では初の男孫だったので、たいそう喜んでくれたという。しかも、母は子宮が弱かったのか詳しくは知らないが、若い頃に医者から「子どもができない体」だと言われていたので、奇跡を見るようだったことだろう。勉強一筋だった親父の精力の賜物かも知れないが。まぁ、正直知りたくもない。
かくして、僕は生まれたわけだ。
生まれた当初は京都市山科区にあった祖父(母方)の持っていたマンションの一室に住んでいた。そこから、一年ほどして、これまた祖父(母方)の持っていた土地に父が家を建て、僕らは京都市伏見区に引っ越した。同じくらいの時期に弟も産まれた。
僕と弟は一歳半ほど違うが、学年で言えばギリギリ年子だった。
さて、産まれてからの記憶なんてのはほとんどない。ただ、一番古い記憶としては、火傷がある。
祖父母(父方)が来てた時に、コーヒーを飲みながら話してたところ、僕がカップを倒してしまい左手を火傷した。
その瞬間などは覚えていないんだけど、その後に泣き止まない僕を母が連れて、近所の桜並木を歩いた記憶がある。
その後に何か記憶があるかと言うと、そんなにない。ただ、家の裏が土手になっていて、そこで虫取りばかりしていたことは覚えている。
あの頃、道を挟んだ家のおじちゃんが、やたらと長い虫取り網を持っていて、これ見よがしに高いところにいるセミを取っていて、とにかく羨ましかった。セミをもらった記憶もない。
何せ僕は虫が好きだった。彼らの生態を見てるのも好きだったし、時には解体なんかもした。
簡単なプラモデルなんかも説明書を見ずに作ってたらしく、祖父が驚いていたそうだ。あんまり記憶にはないけれど、B.B戦士とかミニ四駆は好きだった。
とは言え、凝り性ではないから、作ることしかしなかったけれど。
僕は昔から友だちを作れるタイプでもなかったし、家の近い友だちはいなかったけど、たまに土手まで虫取りに来る子とは友だちだった。
彼とはその後も小学校に上がるまで仲良しだった。
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