プロビデンスの目ってのは、都市伝説好きにはうんちくを語りたくなるような、酒の肴にしたくなるようなワードだと思うけれど、まぁ、ぼくはそんなに詳しくはなくて…だったら、なんで冒頭に出したのかって話だけど、あれは第三の目とか言われたり言われなかったりしてると思うんだけど、人間には2つしか目がない。
だから、第三の目というと基本的には第三者とか客観的な視点と考えられる。もしくは俯瞰してみるとかね。サマータイムレンダ的な。
つまりは、引いてみることの大切さが言いたいわけだ。
人生は、主観的に、感情的になって物事を言いたい放題することも多分にOKだ。だけど、それは共感を得ないし、理解し難い場面も多い。
誰かに蔑ろにされたからコケにするとか、罵倒するとか、そういうことをして気分爽快、明日から晴れ晴れと生きていけるなら、自分的にはOKなんだろうけど、それを他人がしてるのを見たとき、あなたはどう思う?ってことなんだ。
ここに人間が人間として生きる上での難しさ、複雑さがある。
自分、相手、第三者はどんな場合でも存在するからだ。いや、正しくは、人間がそう考えてしまうからだろう。
他の動物はそんなことを考えないんだから、人特有の思考だと思う。
だけど、この概念が人間を人間たらしてめているとも思えるから、もうちょっと考えよう。
生きるか死ぬかの世界では、第三者のことなど一辺も考える余地はない。
だけど、ぼくたちが生きている世界は違う。
安心と安全が保証された世界だから、第三者つまり社会が見てる自分を意識せざるを得ない。
ぼくは妻の女神ちゃんが好きだということを公言しているし、それを第三者がどう思おうがどうでもいいと考えているけれど、それ以外の自分となると、きっと第三者を意識して生きていることが多々というか大分を占める気がしている。
自分では気付いていなくてもそんな自分がいるはずだと思っている。
だけど、最近は「人にどう思われても女神ちゃんに心底嫌われなければどうでもいい」と思えるようになってきたから、生きるのは楽になった。ただ、そんな自分が自分を出してヘマをしていることはとても悲しい。心底嫌われたくないのに、心底嫌われそうなこともしちゃっている自分っているよね。
これはもうクズだと自覚してはいるが…
と、それはさておきだ。
なぜ、あなたは第三者の視点で今いる状況を見れないのか?
これが今日のテーマだ。
もちろん、クズなぼくも含めてね。
見たくないってのは分かるよ。ぼくも見たくない。見たくはないんだけど、ぼくは自分を笑えるし、笑ってもらえるならそれですべてOKだと思える。なぜなら、ぼくはクズな自分もひとつの側面だと捉えているからだ。
だけど、自分を肯定しているわけじゃないし、肯定はできない。
課題としては、今の自分を俯瞰できる視点を「酒に酔っていても」持てるかどうかってとこだ。ぼくの場合はアルコールでの失敗が多いからね。
でも、アルコールが入っていないときとか、限界でないときは、俯瞰できることの方が多い。
だから、ぼくはそこにいても、そこにいる自分を観てることがあるし、それで自分をコントロールしてもいる。し忘れることも多分にあることは内緒だが。
だからといって、他者の目を気にしているわけじゃない。ここは説明が難しいし、する気はないんだけど、自分がどう見られているかなんてことはどうでもいいことだ。
それは自分にベクトルが向いていることだから、第三者の視点で見れているということとは違う。
いや、第三者の視点って言葉がいけないのか。正しくはやっぱり俯瞰なんだな。
その状況を俯瞰して見たときに、それが正しいのかどうか。そして、その視点にも関わらず、主観的な判断になっていないかどうかってのが言いたいことだ。
つまり、「あなたは、今誰を見ていますか?」ってこと。
1対1のときは、相手だけを見れていればいい。自分のことは考えずに、相手のことだけを考えていればそれでいい。
だけど、相手が見えないとき。例えば、広告を作るときなんかはどうだ?
本当にその発言は「相手」に対して言えることなのか?もしくは、目の前の相手に対して言っているだけなんじゃないのか?
そんな風に考えると、ぼくたちはいつも目に見えない相手に対しては、本気で考えられていないんじゃないのか?って思う。
本気で考えたときには、何が一番相手にとって良いか?ってのが答えになる。そこが満たされて、かつ損がない。それが最善の答えだろう。商売ならね。ボランティアは別。
広告を作る時、ぼくはそういう視点にいたいと考える。お客さまがどう感じるか?これ以外に答えはない。
だから、第三者の視点とか俯瞰とは、すべてお客さまの目線でなければ意味はないし、その視点から会話できなければ、話は進まない。お客さまのことを考えることは常識だけど、その立場から発言できるかはある意味では非常識なのだろうか。。。