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お陰様

蝉の羽を片側だけもいで、疏水(人工河川)に投げ込むと肩羽やから水面を回転しながら、流されて行くんだけれど、それが子どもの頃は面白くて仕方なかった。

カマキリに蝶々を与えるとか、クモにバッタを与えるとか、そういう残虐性を子どもは持っている。

でも、子どもにとって、それは残虐とか残忍とかって話ではない。

単なる興味。好奇心でしかない。

少なくとも、ボクはそういう遊びを通じて、生命について学んでいたと思う。

それは、命を大切にするとかってことではなく、食物連鎖という生命の営みを見ていたということだ。

だからなのか、ボクは今でも釣った魚を有り難く捌いて食べることもあれば、気が向けば水槽で飼育して愛でることもある。

後者は生体観察って好奇心だけれど。

ただ、観察すると、魚の賢さや警戒心、人懐っこさなどが把握できるし、捕食の仕方なども見られるから、釣りの知識としては僅かながら活きると思う。

それは良いとして、「食べる」ってことだ。

弱肉強食っていう概念は正しいのかも知れないがボクは好きではないし、強いモノさえも生命の循環の中ではエサでしかない。

だから、食物連鎖が正しいと思う。

だけど、火葬では役に立てない。

土葬が良いって思ってる訳でもないけど、ボクの考えでは土葬の方が自然の摂理に則ってることになるから、死んだら土葬でも良いのかも知れない。

ところで、食物連鎖を虫の観察とか生物の飼育から学ぶってのは、大事だと思う。いや、これが言いたかったんだけれど、逸れすぎた。

他人を大切に思うとか、感謝するとか、自然を感じるとか、そういう優しさってのは、生命の営みを知れば、自然と理解できると思うのだ。

勉強して知るものでもなく、言語で理解できるものでもない。

経験から心に刻み込まれるものだと思う。

幸せを日常に感じるってことも、ボクはその延長線上に芽生えるものだと思っている。

ボクらは誰かだけではなく、いつも何かに生かされているし、この生命は、滔々と流れる川のように連綿と紡がれて来たものだ。そして、次に紡ぐことをただ繰り返す。

ボクの大切な人も、子どもたちも、親も兄弟も、祖父母も祖先も、みなが自然や他の動物、そして誰かのお陰で生かされてきたから、今があるのだと、食物連鎖を考えた先にここに感謝できれば大したもんだよね。(ボクはできてる訳ではない)

そう考えると、お陰様って言葉はスゴいな。

これが日本人の精神性か。

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