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仲間はずれ

岡崎城にて、産湯の井戸から本丸までの道中に、ほんの僅かな時間泪が溢れたということを書いた。

その道中が、ボクの人生やとしたら、歩き出してすく辺りのそこは幼少期〜小学生辺りやと思う。

で、本丸に向かうまでにその頃の嫌な記憶を一つ思い出していた。

それは多分小学二年生の頃。

小学生の話なので、しょうもないんだけれど、当時のボクは傷付いたんだろう。今でも覚えてるくらいやし。

まぁ、今でも本気でそれされたら傷つくよ。

当時、仲の良い友だち同士で、放課後に誰だかの家に遊びに行く約束をして、話が盛り上げっていたんだけれど、具体的になんと言われたかは忘れたが、「お前はあかん」的なことを言われた。それは、多分話の流れで、冗談でそう言っただけで、本気じゃなかったことは分かっていたんだけれど、ボクはそれがショックだったようだ。

ショックだったけど、「え?」って思いながら、進む会話を続けていたら、その傷に耐えられなくなったボクは、泪が溢れてしまった。「おい、誰や?◯◯泣かしたやつ?」と言った張本人が怒り出したから、まぁ、悪気はなかったんだと思う。

そんな記憶がよみがえった。

本当に些細な、しょうもない話なんだけど、幼心なりに結構、傷ついていたようだ。ボクには、実際に仲間はずれにされ記憶はない。だから、この経験に執着することはないんだけど、何がショックだったんだろう?

単純に、冗談とは言え、心無い言葉が嫌だったんだろうか?それとも、仲間はずれにされる孤独が怖かったんだろうか?そのどちらも嫌だけども、、、

今、ボクは孤独を求めている。これは矛盾するだろうか?いや、矛盾はない。

なぜなら、ボクの求める孤独は、自分の時間をストレスフリーにしたいというものであり、真の孤独を求めているわけではない。それに、ボクを愛してくれている人の存在がいることが心の支えになっているのだから、実際に、孤独ではない。

だからこそ、仲間はずれという孤独が怖かったのかも知れない。

自分への劣等感でもあったのか?すでにボクはその頃から自分を愛せていなかったのだろうか?後者な気もする。

家では我慢をして兄を演じていたとしても、ボクだって一人は嫌だ。我慢なんてしたくない。だから、外で友だちと遊ぶ時間は楽しいし、より仲良くなりたいと願うのは当然だ。我慢のいらない関係を求めていたとも言える。

きっと、そうだろう。ボクは、本当の自分らしくいれる環境をずっと求めていたから、仲間はずれにされると感じて、怖くなったんだと思う。外でも自分を演じなければいけないのかと思ったんだろう。これは悲しい。

そう思えば、この頃の記憶がよみがえった理由も分かる。産湯から本丸までの道筋は、本当のボクを探す旅路だったと言うことだ。

この記憶以外には、特に思い出すこともなかった。

本丸に着いた時、ボクは視界が開け、鬱蒼とした林から、明るい解放的な空間に自分がたどり着いたことを感じた。

今は、その先にいる。もう演じることもない。素直な自分のまま、自分らしくあるために、行動していい。ボクが求めた自由は、自分の力で手に入れられる。だから、あの頃のボクにも安心して生きてほしい。長い年月はかかったけれど、そのお陰で、今の幸せを感じられるのだから、間違ってなかった。そうだ。ボクは、過去も今も未来も、すべての自分を信じて、これからも生きる。

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