この記事の中でボクは、考えることが好きだと書いていたが、それは今でも変わらないし、この先も変わることのないボクの性質だろう。自問自答を意図的に行うことがボクの生き方だ。人が無意識に行っていることをボクは、意図的に行うようにしている。
そして、その方法として、「なぜなぜ5回」という有名な思考法をするだけと書いたけれど、回数は問題ではない。思いつく限り問うてみればいい。
なぜAって思うのだろう?それはBと感じているからじゃないか?では、なぜBでと感じるんだ?それはCなのかも知れない。もしくはDなのかも。
みたいに問うて行く。CとD二つの答えが出たときは、違和感のある方を意識する。なぜCって思ったんだ?Dならすんなり受け入れられるのに、Cなんて答えが出るのはなぜだ?とあえてそちらからまた自問自答する。この違和感への追求こそがボクの自問自答のミソやと思う。
どういうことかと言うと、人は楽な方に流れガチだ。だから、Dの方が答えっぽければ、そこで満足したくなる。なぜなら、Cだとさらに考えなければならないし、理想とする自分から離れているように思うから。ってことは、Cを思い付いた時点で、自分は理想と離れているはずなのだ。だからこそ、あえてCを深堀りする。
時には、深堀りしても答えが見えずに、ごちゃごちゃしてしまうこともある。
そんなときは、最初の問いに対して、最もシンプルな答えを探してみればいい。たとえば、「彼氏彼女より相応しい言葉を探す」って記事の中で、言葉の本質ってことについて書いていたけど、そこにたどり着くまで、ボクは彼氏彼女って言葉にこだわり過ぎていた。
だから、彼氏と彼女ってなんだ?って問に対して、最もシンプルな答えを探し、「男と女」と言葉を変えて考えてみた。彼氏と彼女を男と女と置き換えるだけで、彼氏彼女って言葉には、本質さが足りないってことを感じたのだ。
自問自答に煮詰まったときは、別に最初に戻って考え直したっていい。それまでに考えていたことが無に帰すわけでもないし、無に帰しても、別の答えにしっくり来るなら、それでいい。そこからちゃんとした答えが見つかることもある。
このように、答えを探す方法は色々あるし、こだわる必要もない。
だから、問うことはやっぱり波紋を生むし、問いごとに新たな波紋が生まれる。すべての波紋が消えてしまったなら、また問い直す。ただそれだけのこと。
そして、やっぱり波紋の先に見つけた答えなんて正しくなくても良い。それが自分にとって一時の正義となるだけでも、指針となるだけでも良い。納得できればそれでいいのだ。ただ、その答えさえも本当の自分ではなことがある。だから、俯瞰してくれる存在は忘れずにね。そう、毎度のことながら、ボクのことだよ。
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