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自分のこの先の人生を誰かの判断に委ねることは楽ではある。

どうしたらいいのかを考える必要もないし、何かあっても自分の判断ではないって前提で、能力、時代、機会のせいにしておけば、自分は傷付かずに済むからだ。

だけど、それも繰り返されると自分の意思は及ばなくなる。何が本当の自分の意思なのか分からなくなる。

僕はそうやって生きてきていた。39年間以上の月日をほとんど自分の意思ではないモノに委ねて生きて来た。

長男として生まれて、可愛がられて、大切に育てられてきた僕にとっては、そうやって生きることが両親や祖父母、そして家族のためなんやと思っていた。

それが世界の全てやとも思ってた。

でも、全然違ってたし、ほんまはいつも心が苦しかった。

その苦しさをどこかに追いやって、見て見ぬ振りをして、忘れようとしていた。

本当は自分の意思で生きたいと願いながらも、違う自分として生きていることに気付かずに、ただただ訳もわからない苦しみを感じないフリをしていた。

だけど、そんな自分に気付いた時から、僕はブログで自分と向き合うことを始めた。

毎日ひたすら書いていた。

でも、途中で書くことをやめた。向き合うことよりも、前に進みたいと思ったからだ。

そうしてる内に、虹の空を開業して、余計に向き合わなくなった。ビジネスで成功するには、前向きにやり続けるしかないと思って、自分とは向き合わなくなった。

書くという行為は、今も続けてる。ただ、それはもうビジネスのためだ。自分自身のためじゃない。

そして、女神ちゃんとも向き合えなくなっていた。

頑張っても頑張っても思うような成果も出ず、少しの成果に縋りついても、それ以上は伸びず、それでも可能性を諦められず、ただただ疲弊する日々。

一体何がダメなのか、どうすれば良いのか、何を変えればいいのか、答えが見つからず、それでも模索した。

だけど、そこには何も見つけられない。

そもそも、僕は自分のことを知らないまま、意思を持たずに生かされていたんだから、そういう生き方しか知らない。

それを変えるなら、変えるための自分にならないと、生き方そのものを変えないと見つかるはずもない。

幸い、生きていけそうな能力とか才能は培われてるみたいで、そこにも随分救われたりもしていた。

でも、使い切れていないんだと思う。

それなりの自分になれないと、能力も才能も開花はしないってことなんだろう。

今日から、ここから改めて自分に問うて行こうと思う。

保井康司とは何者なのか?どう生きたいのか?何がしたいのか?

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