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看取り看取られ

何を隠そう僕は2019年に一度死地へ赴こうと考えていた。いや、このご時世死地なんて言わない方が良いかも知れないが、おおよそ死に向かって歩き出したと行っても過言ではない。人は皆死に向かってるってことはさておき。

詳細は書かないが、精神の限界を迎えた日の話だ。

その日、僕は遺書ならぬ遺動画をスマホに残していた。

スマホを置いて去るつもりだったからだ。

思惑とは違い、その動画はついぞ誰にも見られることがなかったんだけれど、それを女神ちゃんが観たいと前々から言っていて、なぜか今日観た。

自分で観るにはシンドい動画だったし、何を語っていたのかも覚えてはなかったけれど、ほとんど無言で涙流しながら何か想いに耽っていただけだった。

端々に「どうしていいのかわからない」と言っていたのが、我がことながら癪に触っていたけれど、精神をすり減らしながら頑張ってたかと思えば、その上で行き着く先があれだったんだから、もはやどうしたらいいのか分からなくなっても仕方ないかとも思う。

やれることがあったとか、必死さが足りないとか、そんな話で片付く訳もなく、今の僕なら同じことをしていても、やれることが違ったやろうなと思うので、当時はよほど視野が狭くなってたんだろうし、何よりいつも何かに怯え、追われ、不安を抱えて生きていたから、やはりどうしようもない。

ツッコミたいというか、今の僕から言ってやりたいことはたくさんあったけれど、こうして過去の自分を観てみると、最悪の状況だったこともあり、今がどれだけ幸せで、そこから変われたかと、今の有り難さを痛感した。

何より、やっぱり女神ちゃんと出会えたことが大きい。この出会いがなかったら、あの延長線上に生きていただろうけど、今は岐路を正しく進んだと思える。

日記とかブログにしてもそうだけど、自分の心の内をしっかりと残しておくことで、それを見返した時に自分の今の立ち位置を鑑みることができるのは、良いもんだと思う。

でも、数年に一度で良いけども。

狂気云々とか言えるのも、今だから。

本心なんて言えずに生きてたあの頃からしたら、随分と言えるようになったもんだ。

まだまだ本音を隠す時もあるんだろうけど、近頃、そういう時には自分なりにも違和感みたいなのがあることに気付いて来たから、そこをちゃんと掴めたら素直のままに生きていけるのかな。

とりあえず、あの日の僕の供養というか、死に行く様を女神ちゃんと2人で看取った。当事者の僕からすれば、看取られたってことか?

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