刹那(せつな、梵: kṣaṇa[1]、巴: khaṇa)とは、仏教の時間の概念の1つで、きわめて短い時間、瞬間、最も短い時間の単位を表す[1]。念、念念[1]、叉拏(しゃな)、念頃(ねんきょう)[2]ともいう。
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刹那の長さについては、指をひとはじきする(1弾指)間に65刹那ある[1]などの諸説ある。極めて短い時間を念といい、一刹那、または60刹那、または90刹那などを一念とする[3]。
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分からん。分からんけれども、刹那とは1秒の65分の1ほどの短い時間のことだと解釈したらいいらしい。
そして、人の念、ボクは念とは思いや想いだと解釈するけれど、何かを思うまたは想う瞬間は60刹那または90刹那の間に起こることであると。
この「刹那を生きるという概念を持てた」とするならば、ボクは次の行動をどう判断することが正しいのだろうか?と考える。
刹那を生きると言うことは、次の刹那には死んでいても、、、と考えることだ。
なぜなら、その瞬間(わかりやすく、刹那を瞬間という)瞬間を生きていると実感するならば、そこには生に対する喜びが生まれ、その瞬間を生きるために使うだろう。生きるために使っているなら、ボクの中では、それは常に人生において最高の選択をしているからこそ、生きていると実感できるんだと思う。だから、次の瞬間が生きるための判断であるならば、その次の瞬間に死んだとしても悔いのない判断をするだろ?ってことだ。
だから、刹那を生きる感覚を持てれば、次の刹那に悔いは残らない(のかも知れない)と考えられる。
とは言え、「やりたいこと」「成したいこと」などは誰にでもある。だけど、これは刹那を生きていない。だって、「やりたいこと」「成したいこと」はすべて未来のことだから。
それは希望でしかない。理想でしかない。
刹那を生きるというのは、希望や理想の上に生きることではない。
希望や理想はあったとしても、その前に「今」の自分にできる「最適解」と思われる行動、判断を常にすることが「刹那を生きる」ことだと、ボクは思う。
刹那を生きると言っても、念に60〜90刹那かかるのであれば、思ってからの行動にはもっとかかるわけで、どんだけの刹那を行動までに費やすのかは分からないけれど、大事なのは、「想い」や「思い」に対する行動までの「ムダのなさ」なんじゃないか。
つまり、お風呂に入ろうと思うなら、お風呂を沸かすなり、浴槽を洗うなりの行動をしよう、またはしている、もしくは、したという事実があれば、それは成就しかけているわけで、その思いに対して悔いが残らなくてもよいってことだ。
本願成就ではないけれど、お風呂に入りたい刹那に入ることは不可能だから、その準備まで含めて本願とすべきなのだと思う。
そういうことだ。
つまり、まっしぐらで行くならば、刹那を生きることを優先することが「人生の喜び」に繋がるんじやゃないかと、ボクは思う。
まっしぐらの向かう先は、「自分の幸せ」だ。
自分が不幸であるにも関わらず、人の幸せのために尽くすことはどうだ?
そんなことで相手も幸せに思えるのか?もし、それで相手が幸せならば、それは、その相手からしたら自分は何ものなんだ?と一考の余地があるのではないだろうか?とりあえず、付き合いをやめよう。
ボクは思う。
ボクが苦しい顔をして子育てをしていたとしたら、その子どもは幸せに育つのか?それよりも、ボクが笑顔で幸せそうで、目の前の子どもたちを全力で愛してくれるボクに育てられてこそ、子どもは幸せなんじゃないのか?と。
逆説的かも知れないけれど、ボクは幸せになることを優先する義務と権利がある。義務は、子どもたちの親としてだ。そして、権利は誰にでも平等にあるものだ。
この権利を行使することが、ボクの喜びであり、幸せだろう。
こんな風に、改めて自分の幸せの定義を「刹那」から考えてみたけれど、なんだ言ってることは以前から変わってへんやんw
ボクが幸せになること。これが誰にとっても良いことだ。ボクの不幸を喜ぶあなた以外には。
そして、ボクの幸せはボクにしか感じられないし、判断できないから、ボクが幸せだと感じるように、刹那刹那の判断をすればいいんじゃないか。
だから、今日のところはもう寝ようと思う。寝ることが「今」のボクには幸せだからだ。
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