なぜなら、教えるという行為は自分の時間を犠牲にしなければならないし、同時に相手の時間も奪う行為だからだ。時間を命と置き換えれば、その尊さが分かるのではないだろうか?
さらに教えるという行為の場合は、命だけではなく、経験や知識を上乗せしているのだから、余計に色濃く尊いと言える。
時に「見て盗め」とか「察しろ」と言う人もいるけれど、教えるという尊い行為を放棄しているとも思えて仕方ない。
一方で教えられる立場の人は、そもそも分からないことをアレコレ人に聞くという行為になるわけだけど、先ほど同様に命を奪う前に、自分で行動したかどうかで、その人の本気度と誠実さが伝わる。
まず考え、実行し、それでも分からない時にはじめて教えを乞う。これが正しい。
特に今の時代はインターネットで多くの物事は解決できるのだから、まずはそこで調べるべきだろう。
「できない」「わからない」も「見て盗め」「察しろ」同様に責任放棄なのだ。
つまり、教える側も教えられる側も、お互いがお互いのことを尊重しているのかどうか?ここを蔑ろにしていては、本当の教育なんてものが行えるはずがないのではないか。
まぁ、別に何かがあったわけではなく、なんとなくそんなことを思い付いたので書いてみた。
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