ちなみに、現時点では前回の記事を読み返してはいない。
タパスから与えられた質問
自分の真実に忠実であるために、どこに境界線を引くべきですか?
タパスからの質問
自分の真実、最近は素直でありたいと思っている。つまり、真実の自分をもっと表に出したいと思っている。例えば、このブログがまさにそうなんだけど、ここにはボクの苦悩の日々が表れている。これを文字だけでなく、態度や言葉に行動にもしていきたいと思っている。
そうするとなると、境界線が引かれるのはどこだろう?
うん。答えは単純だ。それは「昨日までの自分」と「今日からの自分」の間やろな。
ただ、こう書くとアバウト過ぎてわかりづらいから、もう少し具体的に考えてみたい。
頂上を目指すにもまずは一歩から
ボクはこの記事までに既に28本の記事を書いている。公開済みが14本、予約が14本。すべてが中身のあるような内容かどうかはさておき、それぞれにボクの思考はあるわけで、そこから何かしらに気付き、学び、成長の糧にしようとしている。
多くは、物事への執着や、自分の欲に対しての自分との対話だから、それらを手放したいと思い日々精進を重ねているんだけど、ここに来て少しだけ見解が変わった。
まだ公開はされてないんだけど、ヨガのヤマ(禁戒)にアパリグラハ(不貪)というのがある。軽く触れた記事はこちらにあるが、ようするに「もっともっと、と多くを求めない」という教えだ。
人はついつい欲深くなりがちだ。美味しいお肉が目の前に並べば、あれもこれも全部好きなだけ食べたいと思ってしまう。人数に対して数があまりそうなら、多く食べたいと思ってしまうこともあるだろう。程度の差はあれど、これは強欲だ。
だから、そんな欲深くなってしまっている自分に気付いた時には、謙虚になればいい。遠慮もすればいい。それは我慢して自分に嘘をついていることにもなるから、サティヤ(誠実)に反するけど、時に明日の自分にとって必要な嘘はある。
そう。ボクの見解の変わった点はここだ。
執着や欲がすべて禁止!それは業を背負う。と思っていたのが少しずつ取れて、今は、「別に自分に必要やと感じる分は、無理に我慢の必要がない」と考えるようになった。そうすると、気分がとても楽になる。
日々の積み重ねで、自分に必要やと感じる分量が減るだろうから、別にそれで良い。一段飛ばしで階段を登る必要はない。劇的に変わろうとしていた自分とも境界線を引くことができた。
必要な欲も認める
さらに、ブラフマチャリヤ(禁欲)に関しても、境界線を引いておこう。
食欲、睡眠欲、性欲、物欲、承認欲求、自己顕示欲など、欲には様々なものがあるけれど、別にこれらもアパリグラハ(不貪)同様だろう。
食べたいと体が求めるものは食べればいい。寝たいと体が睡眠を求めるなら昼寝もすればいい。ムラムラしたら従えばいい。本当に欲しいものは買えばいい。本当の自分を知ってもらうためなら、多くの人に自己開示すればいい。時に自慢して悦に浸ってもいいじゃないか。
だって、その方が人間らしさを感じる。無私無欲なんて、つまらない。人は人と関わって生きていくのだから、癖のない人間には面白みを感じないから、付き合うのも楽しくないだろう。自分らしさは捨てることなく、だけど、愛と感謝を持って、その二つを大きく成長させながら生きられたら良いんじゃないだろうか。
さて、ここまで書いてみて、ボクは多少は変わったと自分でも認識できた。この後、優しさ編にも答えてから、前回の回答を読み返すとしよう。
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