それは、主夫も悪くないもんだ程度の話だと思っていた。
洗濯も食器洗いも料理も嫌いじゃない。
掃除はそんなにこまめじゃないけど、床に髪の毛とかホコリが落ちてるのを目にすると、とりあえずやろうって気にはなる。
だから、主夫ってのも悪くないし、案外やれるもんだと思っていた。
ただ、そう思っていただけだった。
だけど、「なんでこんなに家のことでせっせと動こうとするのか?」と考えると、これは何かしら原因というか、思うところが、無意識にしろあるんやないかとも思う。
案外好きだったってのは、後から知ったことだけど、好きだからやってるにしては、何かに急かされてやってる感もしている。
16時を過ぎたらご飯の支度せな。とか、買い物いかな、とか、時間に追われてるってのもあるかもだけど、もっと深いところ。
それは、自分自身の存在意義に関わるようなことだ。
なぜ、僕は家事をするのか?
家事をしなければ、家は回らない。
つまり、家事をしてはじめて家は保たれる。
重要だ。
そして、僕はそこに存在意義を求めようとしてるんじゃないか?
自分は必要だと。
だけど、正直なところ、やろうと思えば家事は誰でもできる範疇のものだと思う。
そこに存在意義を求めるのは違和感を覚えざるを得ない。
だから余計に、何かあるんじゃないかと思うわけだ。
そして、その何か?とは、、、
先日、2番目に古い記憶って記事を書いたけれど、もっと古い記憶があった。
それは、4〜5歳くらいだろうか。
はじめて幼児園に連れて行かれた時のことだ。
正直、どんな感情だったのかは覚えていないし、記憶は一枚の絵のようでしかない。
ただ、教室の入り口から少しだけ見える室内。子どもには少し高めの床で、石段のようなものを登って教室に入ったんだと思う。
それしか覚えてはいない。
だけど、僕はこの幼児園が嫌で嫌で、近所の幼稚園に転園した。
何が嫌だったのか。
保育園などで、親に置いて行かれて泣きじゃくる子どもがいる。
きっとそれだったんだろう。
「置いて行かれる」という恐怖か。
それとも、「必要ないんだ」という自己否定か。
いずれにしても、子どもにとっては嬉しくないことだ。
僕にもきっと「必要ない」と思うほどの出来事だったのだろう。
だから、必要ないを選ぼうとする。
あの頃の僕が必要とされなかったのに、なぜ今の僕が必要とされようとするの?ってことだ。
そういえば、僕は自分は求めていないのに、誰かに必要とされることにとてもイライラする。
それも「必要ない」が強く出てるからか、、、
女神ちゃんに必要とされたいからと、家事をこなすのも、実はそこを頑張っても必要にはならないからってことを分かってて、そのように仕向けてるんだろうか?
まだ年端も行かない頃の僕に植えついた闇か、、、
僕は自分をトコトン掘り下げて、古い古い記憶の中の僕と腰を据えて向き合わないといけなそうだ。
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