それは、死を間近にした老人の話だった。
彼は言う、「死とは自分を許すことだ」と。
僕らは生を重ねていく内に、たくさんの後悔を抱えていく。
同じだけかそれ以上の感謝や幸福もあるはずだけど、後悔の方が強く残るんだと思う。
あの時、あれをしていれば、あれをしなければ、言えていたら、言わなければなどなど、やったこと、やらなかったことへの後悔は多い。
このブログでも書いたことがあったと思うけど、人は死の間際には「やらなかった」ことへの後悔が多いという。
それは、すなわち行動の大切さを示しているんだろう。
ところで、僕らは死を考えて生きてはいないことが多い。
それは、「死」という得体の知れないものが怖いからだ。死を考えると不安になるからだ。
死は一度体験したら、その先のことは誰も知らないから、得体が知れないというのは、分かるとしても、死に対する恐怖や不安の正体は、何も得体が知れない訳ではない。
死が未知だから、怖いとか不安になる訳ではなく、死ぬことで「失う」と思うことを恐れている。
だけど、件の老人は言う。
「人は何ひとつ自分のものなんて持ち合わせていない」
生まれる時も、死ぬ時も、誰かに助けてもらわなければ、それさえ叶わないと。
僕らが持っているものは、自我以外にないのだ。
自我以外にあるとすれば、それは知識や経験くらいだろう。
確かにその通りだと思う。
生きることに貪欲なのは良いことだとは思うけれど、死ぬことを恐れても仕方がないし。
死だけは誰にでも平等にやってくる。早いか遅いかの違いはあれども、確実に僕らは死ぬ。
僕はやがて死ぬことを怖いと思ったことがない。
むしろ、生きていることの方が怖いと思うくらいだ。
死にたい願望はないけれど、死んでも良いと思ったことは何度でもある。
それが自己価値の低さとか、肯定感の低さとか、そんなことから来ているんじゃないか?なんてことも考えたりしたけれど、おそらく関係ないだろう。
幼い頃、飼育だけでなく、好奇心も含めて、たくさんの虫を殺した。たくさんの爬虫類、両生類を殺してきた。
それに、鳥類の死、人も含めた哺乳類の死、たくさんの死を経験してきた。
だから、死ぬってことは、ただ死ぬだけなんだと思っている。
役目を終えたとか、後付けで色々と考えることはできるけれど、死というのはただの現象でしかない。
とても冷ややかな考え方だけど、死後のことが分からない限り、それは事切れる以外に説明のしようがないんじゃないだろうか。
ただ、ここまで書いてみて、人が死を恐れるのは、自分の思い出を失うことに対しての恐怖なんじゃなかろうか?と思った。
人が自分が自分であると認識できるのは、自分の中に生きた証としての思い出があるからではないか?
その思い出を失うことが、生きた証さえも失うことになるのだとすれば、僕もそれは怖い。
だから、ONE PIECEの中で、Dr.ヒルルクは「人が死ぬのは、忘れ去られた時だ」みたいなことを言ったのだろう。
少なくとも、死ぬことで自分の中では終わったとしても、誰かが覚えてくれていれば、その人の中で自分は生きていることになる。それが、生きた証になる。
きっとそうだ。
そう考えると、僕はこうして記録することが好きだ。ブログで思考を残したり、YouTubeで歌や思い出を残したりしているのは、誰かに知っていてほしいからじゃないのか?
Pomaって奴が生きてるんだよ?って、ことを伝えたいんじゃないのか?
そういうことだろう。
僕は自分が死んだ時に泣いてほしい人なんて一人いればいいと思っている。
他の誰かに死を知らせたいとも思わない。
たった一人でいい。
だけど、生きていたってことだけは知ってもらいたいんだ。
なるほど。
生きるってことは、ある意味そうなのかも知れない。
数年前に、死を許容した瞬間から、生きることの意味はよく分からなくなっていた。
自分の中での答えは見つけられなかったから、それを他者の中に求めようとしていたとも思う。
そして、たまたま沖縄で聞いていたポッドキャストで「死とは自分を許すことだ」と言われて、死について考えた。
死について考えるってのは、生きることを考えることでもある。
僕にとっての自分を許すってのは、生きていいってことを許すことだ。
そして、僕にとっての生きる意味とは誰かに生きている証を示し続けること。
そういや、僕は先ほど、自分の死はひとりが知ってくれればと言ったけれど、それは死を看取ってほしい訳ではない。
僕は女神ちゃんよりほんの僅かだけ長生き出来れば良い。彼女を看取ってから死ねれば本望だし、それが最高の死だと思う。
そして、彼女が死ぬ時に、次に僕も死ぬんだってことで涙してくれれば、それだけで幸せだ。
僕の死は女神ちゃんのためにあると、そう言える。
だとしたら、僕の生も女神ちゃんのためだろう。
つまり、僕は自分の生きた証さえも、彼女のために示し続ければ良い。
きっと、それが僕にとって何にも変え難い生きる意味になる。
この沖縄旅行で、僕は色々と考えていた。
こっちに住みたいとか、帰ったら職を探した方が良いのかとか、空っぽの財布のこととか、そんなことを考えてたら、普通に生きられないことはシンドいなぁとも思っていた。
だけど、僕の生きた証を少しでも多く残せることをすれば良いんだと思えたら、それは何も難しいことでも、シンドいことでもないと思う。
僕のように、いつも死を隣に感じながら生きていることは不思議なことかも知れないけれど、だからこそ、できることは他の人より多いんじゃなかろうか?
命を失う行為は怖いけれど、やがて来る死を恐れていないのなら、ただ生を楽しむだけで、人生を過ごしていけばいいんじゃなかろうか。
沖縄に来てまで考えることではないのかも知れないが、沖縄だから考えてしまうのかも知れない。
僕にとって死とは、生きた証を示し続ける道の先に訪れる人生最後の幸せの瞬間なんだろう。
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