日本では、神々は日常の様々に宿るとされている。それは、自然の太陽や海もそうだし、トイレにさえいると言われてる。だから、いつも神さまはあなたの隣にいると感じながら生活していることだと思う。
僕たちにとって、神さまはこころの中にいるわけではなく、隣人だ。
神を感じ、神を知る行い
僕はヨガをたまに嗜むことがある。ヨガの哲学も好きだ。そして、先日、近代ヨガのルーツを探るというドキュメンタリー映画を見た。
そこで、ふと気になったフレーズがあった。
それを聞いて、インドでも神さまは多神教で生活の中にいつもいる、つまり神が身近な存在だから、その神さまに近づくためにヨガは生まれたと言った内容だと僕は解釈したんだけど、だったら、なぜ同じ多神教の日本ではヨガのようなものが生まれなかったのか?と今回のタイトルの疑問を抱いた。
そもそも、インドの神さまがとるポーズを人が真似たのがヨガの始まりとされているらしい。
なぜ真似たのか?
それは先ほど言ったように、神さまに近づきたいという想いからだろう。神を知りたいと思ったのかも知れない。
いずれにしても、人ならざるものへの憧れを抱いた結果、その境地を目指した人がいたんだろう。
日本はどうか?
縄文時代から日本人は自然崇拝していたけど、それは憧れの対象ではなかったと思う。
つまり、畏怖から神と崇めた。
だけど、やがて神さまはもっと身近なものになっていって、古事記や日本書紀にかかれているような人の形を成した神が生まれたんだと思う。学者じゃないから詳しくは知らないけれど、神を身近な存在とすることが、天皇支配という体制を作るには最適だったからだろう。
妖怪だって似たようなもんだけど、あれは異形だから、妖怪とされているんだろうか。まぁ、それは良いか。
インドでも神は人の形をしていたりするし、もしかしたら畏怖の対象でもあったかも知れないが、なぜか憧れた人がいた。いや、日本でも憧れた人はいたかも知れないけれど、日本の神さまってのは、そもそもポーズを取るってことがないし、何かに描かれているってことが少ない。
仏教の神さま、いわゆる仏さまたちはその姿が描かれているけど、神道の神さまたちは、コレ!といって描かれてない。あちこちで模写されるみたいなことがないってのも、憧れを抱かない理由なのかも知れない。
日本人にとって、神さまというのは、崇拝の対象ではあるけれど、憧れるとかって感情は確かに今の僕らにも湧かないし、そもそも近づくとかそんなものではないよな。
というより、インドの神さまにだって憧れたのかどうかは知らない。もしかしたら、神と同じポーズを取ることで、何か新境地に達せれると思っただけかも知れない。
そうなると、ポーズを取っている絵がないことが、日本でヨガが生まれなかった理由なのだろうか?
インドの神さまや仏教の仏さまは、たいてい座している。でも、日本の古来の神、例えば天照大御神とか素戔嗚命ってのは、座してるイメージがない。なんなら、動き回ってる気がする。
やたらと人間臭い。
仏教からヨガは生まれなかった
でも、インドも日本も仏教はあるけど、そこからヨガは生まれず、瞑想だけが生まれた。なぜだ?
もしかしたら、座禅が最も効率的なポーズということか?
だとしたら、ヨガには他の目的があるのかも知れない。
それは、例えば肉体への執着。肉体に執着があるから、そこから解き放たれるために、様々なポーズを取ることで、肉体を自由にするとか。動きの流れの中で、集中力を高められるとか。そんな発想かも知れない。
肉体を忘れるために、肉体を苛めるという発想か。
動くことは健康的でもあるし、それ自体が快楽でもあるから、その悦の先に精神が解放されることはある。ゾーンって呼ばれるものとか、多分それ。体感したことないから知らんけど。
確かに、集中って行為は悦を伴う気はする。
悦の先に無の境地があると考えることはできそうだ。
ってことは、つまり、神はより人間に近い存在だと、インドでも認識していたのか。
ただ、欲にとらわれることはないから神さまと呼ばれるのか?
そうなると、日本の神は想像されたのが権威のためだったから、発想の違いから、ヨガに至らなかったと言える。
うん、まぁ、専門家でもなんでもない僕がどれだけ考えても、答えは出ないということが分かった。
日本でヨガが生まれなかったのは、神の種類が違うってことだと思っておくことにする。
これは、瞑想などでゾーンを体験できたあとで考えれば、何かつかめるのかも知れないが、僕にはまだまだ先の話となりそうだ。
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