それは本当にありがたいことで、不安がないから、行動も素早く起こせるし、素早くなったから、行動量も増えてる。何も仕事だけではなくて、日々の活動量全体が増えた。思考も含めて。
お陰で、楽に生きてられるし、飾ることもなくなった。昨日の記事にも書いたけど、あの頃のボクと最近のボクとをYouTubeで見比べたら、一目瞭然で違う人だ。自分で観て吐き気がするほどに、過去の自分は目がくすんでいた。
だから、今のボクは自分らしくあるし、素直なボクで生きていると感じられたんだけど、本当のボクとあなたが出会うことはない。
それは、読者と筆者だからって意味ではない。たとえリアルで会ったとしても、本当のボクとは出会えない。
だったら、自分らしくあって、素直に生きてるボクと、本当のボクとは違うのか?まだウソをついてるのか?ってことになるんだけれど、そうじゃない。
人は誰しも自分を演じている。演じている中で、さらに自分をこじらせてしまうから、自分を見失い、見失ってる自分を自分のままやと思って生きるから、歪んでしまう。
ボクはその歪みを直すことで、自分らしさと素直さを手に入れた。
だけど、それは対外的にウソを付かずに生きているってことに過ぎなくて、その生き方そのものがボクなわけではない。
そう、生き様とボクの個性は、別なのだ。
そして、ボクは個性を使い分ける。これはボクだけの話ではない。みんなそうやって生きている。
さっき言ったみたいに、人は誰しも何かを演じて生きているのだ。
子どもの前ではパパだし、親の前では子どもだ。兄弟の前では兄だし、クライアントの前ではマーケターやアドバイザーだったりするわけだ。どれもボクであり、そこにウソはない。
ボク自身、その自分に違和感はない。これまでムリしていた部分をムリしなくなった分、余計に演じやすくなった。
つまり、ボクのまま演じているのが今。相手の望むボクであろうとムリして演じてたのが過去。その違いが大きいってことだ。
伝わってるだろうか?
他人と触れ合うとき、そこはもうステージになるから、生きていくには演じる以外にない。
だけど、楽屋はある。ボクにとって、それは一人でいるときや、子どもだけと触れ合ってるとき。そこでは、演じていない。本当のボクがそこにいる。
他人の存在が一切関与しない空間にしか、本当のボクはいない。
では、本当のボクってなんだろう?
それは、子ども心のままのボク。
喜怒哀楽を素直に表現できて、ワガママも言うし、駄々もこねる、泣きもするし、落ち込みもするし、嬉しければ踊るかも知れないし、楽しければ歌い出すかも知れない、それら全てを隠そうともせずに、表に出す。自分を自然のままに表現できるボクだ。
だけど、そんなボクは楽屋にしかいない。
今まで、どこにいててもボクはいつもステージだったから、そんな自分に疲れていた。そう思えば、色んなことにも納得がいく。
だから、ボクは自由を求めた。そして、もうすぐ自由になれる。日常を楽屋で過ごせるのだ。
そんな本当のボクが、ステージに現れることはないだろう。だから、あなたと出会うこともないってことだ。
ボクから楽屋の扉を開けて、本当のボクが顔をのぞかせるのは、子どもを除けば、一人だけ。やがて、楽屋にお邪魔してもらう日も来るだろう。
ボクはその日が1日でも早く来るように、建て付けの悪くなった扉を改修しているところだ。
もしかしたら、そこにはまだ、自分さえも気付いていない自分がいるかも知れない。この扉の改修はいつ終わるかな?
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